結婚記念日35

先日、結婚35周年を記念して、カミさんと一緒に2泊3日で屋久島に旅行した。初めての屋久島は、シーズンオフということもあって空いていて、人気スポットを効率よく回ることができたが、特に地域のガイドと歩く里めぐりは「ブラタモリ」のような面白い体験だった。そんなわけで、屋久島に関して話したいことがたくさんあるのだが、今日はあえて結婚記念日について話をしたい。

 

世間には様々な祝日や記念日があるが、僕は「結婚記念日」を一番大切にしている。もちろん「カミさんを愛しているから」と言いたいところだが、もう少し正確に言うと「結婚」そのものを僕が大切に考えているからだ。その理由は、結婚は誕生や死と異なり自分の意思による行為であること。そのため、「結婚記念日」は正月やクリスマスなどと違い自分独自の日である上に、誕生日や親の命日などと違って自分自身が選んだ日となる。その意味で、「結婚記念日」に似ているのが「創立記念日」かも知れない。自分の意思で会社や施設を生み出すのは、与えられたことではないという意味で結婚に似ている。だが、会社はやがて引き継がれ、自分から離れていく。それに引き換え、結婚だけはいつまでも自分自身のことであり続ける。

 

結婚について、面白いエピソードがある。それはイスラム教徒の友人から聞いた一夫多妻制の話だ。日本では一夫一婦制が一般的な常識だが、イスラム教徒が一夫多妻制であることを否定したりはしない。ところが、イスラム教徒の友人は、日本人やキリスト教圏の欧米人の一夫一婦制を否定する。世界の多様性を認めない彼らの意見に僕は強い違和感を覚えた。「なぜ君らは、一夫一婦制を否定するのか」と問いただすと、「それは、一夫一婦制が嘘だから」という。つまり、「多くの人が堂々と浮気をし、社会がそれを許容しているくせに一夫一婦制などちゃんちゃら可笑しい」という訳だ。確かに結婚式で唱えられるのは「死が二人を分かつまで、貞節を保ち、添い遂げる」という約束だ。多くの人が、密かに貞節を破り、添い遂げもせず自ら誓いを破っている。そして許しを請う・・・所詮そんな信仰なのかもしれない。

 

だが僕は、それでも「死が二人を分かつまで、貞節を保ち、添い遂げる」という「結婚の定義」を誇らしく思う。それは同時に、結婚の目的が生殖や繁殖でないことを示すからだ。ようやく日本でもLGBTという言葉が認知され、同性愛者が異常視されなくなってきたが、それでも大多数の人にとって「同性婚」は理解不能な概念だ。同性婚を否定するのは、結婚の目的を「子供を産むこと」と考えるからだが、それでは不妊症の男女は結婚できないことになってしまう。そもそも誓いの言葉に「男女や生殖」のくだりは無い、つまり結婚とは「自ら選んだパートナーと生涯添い遂げる」という生き方そのものであり、家族や親子とは別の極めて人間的な概念ではないだろうか。

 

僕は今、カミさんの実家に同居して「マスオさん」になっている。カミさんの母親と弟、そして僕たちの息子と暮らしているので全員が血縁関係者なのだが、唯一僕とカミさんだけが赤の他人ということに僕はある時気が付いた。どんなに家族の絆が強くても、それを生み出す「夫婦」が他人であるということは何と皮肉なことだろう。僕は一般論として離婚を否定する気は毛頭ないが、僕自身は離婚せずに添い遂げることに結婚の意義を感じている。世界中の人間から一人を選び、互いが一番良かったと思いながら死んでいくなんて、なんて壮大なチャレンジなのか。とても難しいことかも知れないけど、多くの人が成し遂げているのもまた事実。そして、どんな人でも挑めることが、何より素晴らしいと僕は思う。

 

価値があるから大切にするのではなく、大切に思うことこそが価値を高めるのではないかと僕は思う。だから僕は、自分の結婚を大切にしたい。別に大切にしなくても、怒るのはカミさんだけだし、それも時と共に失せていくのかもしれない・・・だから、このチャレンジは僕にしかできないし、その価値は僕にしかわからないし、それでいいと僕は思う。だがもしも、この話を聞いてあなたもそう感じたなら、あなたにも是非挑んで欲しいと思う。今年は2組のカップルから「婚姻届の証人」仰せつかったが、そのKさんとIさんたちには、是非とも挑んで欲しい。自分が選んだ赤の他人を、一番大切にするチャレンジを、僕は死ぬまで続けたい。