未来シャッター

昨夜、蒲田のキネマフューチャーセンター(http://kinemafc2013.wixsite.com/kinemafuturecenter)で、【未来シャッター】という映画を見てきた。この映画は、監督の高橋和勧氏が資金ゼロから地域の賛同者を集め作り上げた映画で、昨夜は70回目の上映会、それも鑑賞後に参加者同士が語り合う「ダイアローグ体験付」という不思議な映画だった(http://miraishutter.weebly.com/)。閉ざされた未来のシャッターを開くため、登場人物たちが自ら引いた一線(境界線)を越えていくのだが、交通機関、金融機関、教育機関、町工場やベンチャー企業、さらには宗教家までが実名で登場する「リアルなフィクション」だ。前作の【商店街な人】に端を発する一連の活動の中で、会場のキネマフューチャーセンターをはじめ、リアルな添付やプロジェクトを生みだしてきたという、まさに「リアルを生み出す映画」と言えるだろう。

 

ところで、この「フューチャーセンター」という言葉、最近よく耳にするのだが、異なった組織や立場の人々がその組織や立場を離れ、自由に関係性を形成し、未来志向で創造的な対話をおこなう「場(ba)」を意味するらしい。この〈新たな場〉の概念を提唱したのは、現在、スウェーデンのルンド大学教授をつとめるレイフ・エドビンソンで、1996年、当時彼が所属していたスカンディア保険会社が創設したSkandia Future Centerが最初とされている。人は誰しも、過去や現在について議論すると、しがらみや利害の虜となってしまう。しかし未来や夢について語りあうとき、人はみな創造的になりうるものである。そこでは、ブレインストーミングなどに適した空間演出もさることながら、フューチャーセッションと呼ばれる創造的議論の進め方などむしろソフト的なしくみが重要といわれている。蒲田の「キネマフューチャーセンター」における映画「未来シャッター」とは、参加者のイメージを巧妙につなぎ合わせる、まさにその仕掛けなのだ。

 

対話の中で、次第にその種が明かされるにつれ、僕の胸は高まった。それは僕自身、マインドサイトからまつむら塾へと考え続けてきたことが、こうして実社会でも展開されていることを知ったからだ。僕は物事を「目的と方法」に分解して考えることを提唱してきた。それは自分の「思いと行動」のこと。自分が当事者であれば、世界は必ず「自分から見た主観的な面」と「事実としての客観的な面」の2面を持つが、前者を「目的や思い」、後者を「方法や行動」と僕は言い換える。この2面は表裏一体で、いかなる物事においても常に同時発生するのだが、とかく我々の議論は後者の「方法や行動」に終始する。確かに前者の「目的や思い」は人それぞれに異なるので、その集約や選別は難しい。だが、「目的や思い」を持たない「方法や行動」は実現でなくまぐれに過ぎない。あらかじめ未来を論じなければ、我々はタダ成り行きに身を任せているだけになってしまう。

 

だが、未来を論じるのは過去を論じるよりずっと難しい。それは、誰もが違う答えを持つ上に、その正誤など誰にも分らないからだ。誰しも自分の答えが正しいと考えるので、他人の違う答えを受入れ難いのは当然だ。その壁を、この映画は「未来シャッター」と呼んでいる。そのシャッターを開け、自分以外の人が描く未来に耳を傾けることが必要だ。そのことに気付き、自由に未来を論じることで、フューチャーセッションも成立する。「自動車産業に未来はあるか?」に対して賛否を論じるのでなく、「将来自動車産業が発展したとき、世界はどうなっているだろうか?」とあらかじめ描いた未来を一旦受け容れた上で論じ合うことで新たな気づきを生み出していく。その時はガソリンは使わないだろう、その時タイヤは無いだろう、その時車体は無いだろう・・・となって、結果的に自動車そのものが否定されることもあるかも知れない。

 

こうした発想が革新(イノベーション)を生む。頭から否定せず、肯定から始めたのに結果として否定に至ること、あるいはその逆が新たな合意を作り出す。例えば「日本政府が破たんする」という僕の自論は、予想ではなく願望だ。現代の日本は、目先の東京オリンピック以外に目標の無いお先真っ暗な社会だ。どちらをみても、このまま行けば破たんする話ばかりに取り囲まれている。破たんせずに未来ビジョンを誰も描くことができないのなら、不自然な財政や無責任な政策が破たんすることで社会は混乱するかもしれないが、その後どうなるかをみんなで論じ合うべきだと僕は思う。活力を失った地域を活性化したいのなら、あらかじめ活性化した姿を想定し本当にそれを望んでいるのかをみんなで議論するべきだ。一人一人が望む世界を目に浮かべ、それらを見せ合うことで大勢がビジョンを共有しなければ、その実現はおぼつかない。

 

前作の【商店街な人】は行政フル出演だったのに対し、今作の【未来シャッター】は全編民間組織や個人の取組で構成されているのも重要だ。民間市民が当事者意識を失い、福祉やまちづくりを役所仕事と勘違いしていることが、最大の問題だと僕は思う。昨夜の対話の中でも、某都の職員たちが「市民がやってくれないから、仕方なくまちづくりをやっている」と口を揃える。安倍政権の「全世代型の社会保障」など、国民を甘やかすのもいい加減にして欲しい。僕が、民有土地資源活用の所有者参加を推進するのは、所有者の当事者意識を高めるだけでなく、所有者との協働により利用者の当事者意識も高めたいからだ。未来を描くことで革新を生み出す「フューチャーセンター」の取組に、これからも注目していきたい。