時間という概念の使い方

『平治物語絵巻』三条殿焼討 転載)

時間とは、もちろん過去・現在・未来のこと。

だが今日は、あえて僕たちが「時間の概念をどのように使っているか」を考えてみたい。

僕たちはいつも現在に居て、様々なことを見たり聞いたりして感じている。

そして、これから何をしようかと未来を考え、実際にやることが過去となって積み重なる。

それはおかしい、過去だって未来だって感じることができる…とあなたは言うかも知れないが、感じているあなたはいつも今現在のあなたのはず。

よく考えてみれば、昔のことを思い出しあの時どうすれば良かったのかと考えるのは、その時から見て未来のことを考えているのだし、未来の失敗を恐れるのはその先の未来から失敗したかもしれない自分を振り返って後悔しているようなものだ。

つまり、時間というのは単に時が流れていくことではなく、僕たちが、感じ(感覚)、考え(思考)、行動することの総体を意味する概念ではないだろうか。

感覚、思考、行動は、いずれも変化することを意味していて、変化の前後が過去と未来を作り出す。例えば、感覚は「刺激に対する反応」、思考は「理由に対する目的」、行動は「原因に対する結果」をもたらす変化のこと。

ここで、反応=現在、目的=未来、結果=過去であることから、感覚=現在、思考=未来、行動=過去と僕は考える。

だが、先ほど述べたとおり、人間はイマジネーション(想像力)を使って過去と未来を自在に行き来できるので、未来をその先から振り返ったり、過去をそれ以前から予見したりすることができる。

だからあなたも、僕の説明に納得できないのは無理も無いことだが、それでもあえてこの話をするのには訳がある。だからもう少しお付き合い願いたい。

感覚、思考、行動の組み合わせは、人によって異なる。

人の不幸を見て喜ぶ人と悲しむ人がいると思えば、悔しいと落ち込む人と張り切る人がいたり、忙しく働くことを幸福と思う人と不幸と思う人がいる。

だが一方で、感覚は確かめられないけど共通のはず、思考は自由で千差万別、そして行動は誰の目にも明らかな客観的事実となることは、万人に共通だ。

だから僕たちは、客観的な事実と共通の感覚を手掛かりに他人のことを理解しようとする。

言ってること(未来)とやってること(過去)が一致しない人は、決して信用してもらえない。

だが一方で、過去の延長でしか未来を語らない人は、期待してもらえない。

せっかく未来は誰にも制約されていないのだから、自由に語らなければ価値はない。

この矛盾を解決するためには、「目指す未来を導き出す過去」を探し出す必要がある。

例えば、大勢の僧侶を虐殺した織田信長を大悪人と評する人も、僧侶たちの悪行を知ることでその評価を覆す。

だから歴史は面白い。

このように、感覚、思考、行動が変化をもたらすのであれば、僕たちはどんな変化を求めているのか。

それは幸福、美徳、自由の「3つの善(良いこと)」だと僕は思う。

幸福とは、美味しい、楽しい、うれしいなど自分が良い状態であることを感じることで、明らかに今現在を指している。

美徳とは、美しい、誇らしい、勇ましいなど、他者から賞賛されるべきと考えることで、明らかに実現した過去を指している。

そして自由とは、自ら進んで、好きなことを制約なしできることで、明らかにこれからの未来を指している。

したがって、幸福と美徳と自由は、それぞれがバラバラに実現するのではなく、「お仕着せで恥ずかしい幸せ」とか、「自ら望んだ名誉だが辛い」など、必ず3点セットで実現する。

もしも「3つの善」のすべてにこだわって何も実現しないのなら、いずれか一つを実現するために他を犠牲にしてもいいと考える人は、こうして生まれるのだと僕は思う。

・・・と、今日はこんなところにしておこう。

今日はなぜ、突然こんな話を始めたのかというと、ずっとこれが「まつむら塾」の課題だったから。

「これまでにない新しいことを考える」ために、「それが実現した後の世界を描く」という僕のやり方を判りやすく説明するため、描くべき「世界」を「人間・空間・時間」で説明する作業が、今年の4月「時間」の話に差し掛かったところで行き詰まっていた。

今日も、この課題を思い出し、朝から悶々としていたのだが、ついに昼頃答えがわかった。

その気づきを忘れぬよう、備忘録として一気に書いた。

やっとこれで、まつむら塾も再スタートだ。

そして、皆さんへの起業サポートも、そして僕自身のチャレンジも、ちょっと加速したいと今思う。