戦争をしない動物

 

 

アフリカの南スーダン国連平和維持活動(PKO)に参加した陸上自衛隊の部隊が、首都ジュバで昨年7月に大規模な武力衝突が発生した際の状況を記録した日報が廃棄されていた問題が、今大問題になっているのはご存知の通りだ。公文書の取り扱いについての議論は確かに大切だし、その取扱いについて、きちんと説明しない大臣や、その任命者の責任も確かにあるとは思う。だがそもそも、なぜこの書類が破棄されたのか。それは、今回の派遣において自衛隊が戦闘地域での活動を余儀なくされたからではなかったのか。そのことについての検証と、是非に関する議論が見事に吹き飛ばされていることが、なぜこれほどまでに論じられないのだろうか。

 

こうした傾向は至る所で見受けられる。北朝鮮との間で緊張が高まっているというが、金正恩とトランプが言い争っているだけのことで、周辺諸国の大多数は、「良いから頭を冷やせ」と言っている。アメリカを標的とするミサイルに対し、日本は集団的自衛権を行使すべく迎撃の準備をしているのだが、アメリカに守られている日本にとって、アメリカが攻撃されるかもしれないということは、「日本の存立が危惧される事態と言えなくはない」と防衛大臣は説明する。なるほど、安保法制とは、まさにこう言うロジックを法制化したものだ。法律に沿って戦争ができる状態とはまさにこのことだ。

 

僕は戦争が嫌いだ。それは、戦争が壮大な嘘だから。「国を守るために相手を殺してもいい、さもないとこちらが皆殺しにされるから。」というロジックはでたらめだ。多くの戦争は、皆殺しになる前にどちらかが負けを認め和解する。その結果、負けた方の戦死者は騙されて無駄死にすることになる。「勝利=皆殺しにされない」ために戦ったはずなのに、負けても生き残る人がいるとはどういうことだ。もしも初めから1万人死んだところで戦争が終わると判っていたら、あなたは進んでその1万人になるだろうか。もしも原爆を落とされたら戦争が終わると知っていたら、どうぞ私のまちに落としてくださいとあなたは言えるだろうか。結局戦争は「勝つため」にやるものだ。負け戦など誰もやりたくない。だが、戦争当事者たちはそうではない。彼らは勝てない戦と判ったら、平気な顔で降伏する。だったら自分で戦えばいい。そんなにやりたければ、国家を代表して相手と刺し違えて来て欲しい。

 

戦争に関する核心の議論は、いつも避けられていると僕は思う。戦後日本の合意事項は「戦争放棄」であることに異論を唱える者はどこにもいない。これは戦後世界が目指したことであり、国連はそのための国際機関だ。憲法第9条の記述は、当時の世界の理想を言い表したものであり、それはお仕着せでも何でもない。広島の平和公園の戦没者慰霊碑に刻まれた「安らかに眠ってくださいこの過ちは繰り返しませぬから」という言葉が、それを分りやすく説いている。戦争で死んでいった人たちに対し、死なずに済んだ我々が他にどんな言葉をかけることができるだろう。戦争を説明し、殺りくを正当化することなどできるはずがない。戦争は「間違い」なのだから、もうしないと誓う他に道はないと、僕は理解している。

 

だが、妙な理屈をつけて、これを覆そうとする輩が大勢いる。彼らの顔は知らないが、戦争をビジネスにする奴らが世界中にいることは間違いない。恐らく人間は、人間になる以前から戦争を繰り返してきたのだろうから、これもまた仕方のないことかも知れない。僕は仕事柄、建設業界の談合に幾度も立ち会い、そこに行政も政治もどっぷり漬かってきた実態を見てきた。だから、戦争ビジネスが政治を動かしているとしても、何の違和感も感じない。恐らく、身近な多くの人たちが、もしかすると自分自身さえもが、どこかで戦争ビジネスに加担しているかもしれない。現に日本政府は、核拡散防止条約すら批准できずにいる。だとしたら、これらの人たちを改心させたり駆逐することなど、到底できないのではないのか。

 

本当に人間は「人間になる以前から戦争を繰り返してきた」のかもしれない。人間は「戦争する動物」なのかもしれない。だとしたら、僕はあえて次の進化を遂げてみたい。「人間は戦争をしない動物」と言われるようになってみたい。