原爆の日に思う

先日久しぶりに会ったHさんから、ネット通販の新しい仕組みに入らないかというお誘いを受けた。現在の取り組みと、その効用について。その体験をネット通販で取り扱うことに至った経緯と、その仕組みの魅力について。そして、その仕組みの販売代理店になれば、さらにメリットがあると。つまり、これはマルチ商法の一種ということを、Hさんは熱心に説明してくれる。そして、僕の他にも友達に早く知らせてあげたいと目を輝かせる。でも僕はきっぱりこれを断った。なぜかと理由を問われたので、「それはマルチ商法だからですよ」と答えると、Hさんはそんなことはよくわかっているという。だが、「この仕組みで損をする人は誰もいないと思うんですが、なぜ松村さんはダメだというんですか?」と、真顔で尋ねられた。

 

そこでまず、僕はマルチビジネスを否定しているのではなく、僕自身は「それ」をやらない主義だと答えた。「それ」とは、「一部の人しか儲からないビジネス」のこと。僕は、世界中の人が生きていくためのビジネスに興味があるので、一部の成功者になる気はないと説明した。するとHさんは「確かにこれは、限定1000人のお誘いなんですが、一部の人しか儲からないのは仕方ないんじゃないですか?」というので、「だから否定はしませんが、僕は興味がないということです。」と説明した。確かに「全員が儲かるビジネス」はあり得ないが、全員の幸福を目指すのが社会だと僕は思う。そのためにお金は必ず必要だが、それだけでは絶対に足りない。

 

現代社会では、巨大なビジネスが少人数で多額の利益を上げていて、その分大多数の人が損をしているのかと言えば、決してそうではない。私たちは従来と比較にならない性能の商品やサービスを、低価格若しくは無料で享受できるようになった。その原動力となっているのは、一部の人々の膨大な利益であることは間違いない。利益の源泉は、投資や投機だけでなく、発明や著作、ブランドやカリスマ性かも知れない。さらにはマルチ商法や金融システム、遺伝子組み換えや戦争ビジネス、果ては政治権益や人身売買など留まるところを知らない。これらの営みはすでに国家の枠組みをはるかに超え、世界中を巻き込んで動いている。今や国家は、社会の全体像というよりは、それぞれが互いの権益を主張し合うローカル組織となりつつある。アメリカファースト、都民ファーストというスローガンは、すでに世界が一体化してしまったことを示す言葉に聞こえる。

 

しかし、国家が地域性を主張することには、僕は強い違和感を感じる。僕たちが生きる「地域社会」とは、そんなに大きいはずはない。国が大きくなるのは、あくまで武装して戦乱を生き残るためであり、平和な世界において、市民はこんなに大きな国家を必要としていない。顔も見えない遠くの人々を地域の同胞と認識するのは難しい。僕の暮らす世田谷区でさえ、90万人のコミュニティなど存在しないのに、果たして「日本国」という1億2千万人の集合体に何の意味があるのだろうか。沖縄の米軍基地や福島の原発など、まるで共有できていないこの国に、中国や北朝鮮など他国と対立する以外に、何の意味があるのだろう。

 

原爆の日になると、いつも思う。なぜ日本は原爆の廃止をもっと声高に言えないのだろうか。「唯一の被爆国として」という言い回しを平気で使うくせに、核拡散防止条約に参加せず、アメリカの核に守られているなどという詭弁を使う。日本がアメリカの核戦略を支持していることこそが、各国の核武装を正当化してしまっていると言っても過言ではない。なにしろ、唯一の被爆国ですら賛成している戦略なのだから。このように「国」は常に軍事的に都合よく使われる概念だ。被爆の無念を共有すらしていないのに、「被爆国」などという言葉には何の意味もない。被害者と加害者を都合に合わせて使い分ける、政治のロジックに使われるだけのこと。戦後72年もこんな状態が続いている。

 

もしも「町内の人だけが儲かる仕組みのマルチ商法」だったら、僕は賛成するだろう。Facebookの日本法人が拠点を置く地方の小都市が、夢のような楽しいまちになったらどんなにいいだろうと、僕は妄想する。多様な地域社会を包含する国家がビジネスを武器に争い合い、根無し草となった企業がその利益をまちづくりに使わずに貯めこんでいるなんて、なんて馬鹿げた話なのかと僕は思う。身近な問題でなければ、誰も真剣になれるはずがない。地域独自のビジネスを中心に身近に感じることができる規模の社会を作り、それを支える行政が世界を繋ぐ役を担えばいい。戦争の時代を終えるため、そろそろ次のビジョンを描く時が来ていると僕は思う。