ウランバートルの大気汚染はひどい!

 

昨夜は年に一度の同窓会で、建築学科当時の仲間に再会した。多くは建築関連の仕事に携わっているので、業界の先端の話を聞けるのだが、少数ながら僕のような途中脱線組も混じっていて、そんな人の話を聞けるのもこの会の魅力だ。昨日久しぶりに再会したYさんは、農学部を卒業後、建築学科に学士入学してきた変わり者だが、建築模型にパセリを植え、水をやっていたのを今でも思い出す。現在はJICA(ジャイカ)で、環境問題に関する途上国支援をしているとのこと。特に大気汚染に関する調査や対策をプロジェクト化する話では、ウランバートル、コソボ、テヘランといった都市の環境問題が、産業構造や経済情勢だけでなく歴史的経緯や政治問題、そして地形や気候、文化に及ぶ複雑な要素の絡み合いで、説明を聞いているだけで僕はワクワクしてきた。

 

やがて「・・・で、松村君は何をしてるの?」と尋ねられたので、ちょっと考えてから「土地を持て余している所有者を支援したり、土地の寄付や遺贈の受け皿になろうとしているんです」と答えると、Yさんは「いやあ、僕の家でも相続が発生し、長崎の実家をどうしようかと困っている」と身を乗り出してきた。そこで僕は、現に土地を持て余している人が相当大勢いること、土地は利用したり稼ぐための資源ではなく、税金や維持管理費の負担にあえぐ負の資産になりつつあること。自分で利活用できない人が行政へ寄付を申し出ても断られてしまうこと。たとえ寄付を受けてくれる団体があっても、基本的には売却・換金され、土地として利活用する仕組みが見当たらないこと。そんな社会の実情を説明した。

 

するとYさんが、興味深い話をしてくれた。「経済学の用語で“公共財”と“私的財”という言葉があってね、土地は利用価値があり役に立つ間は“私的財”だけど、役に立たなくなったら“負の公共財”となるんじゃないかと僕は考える」と。僕はこの話を聞いて、目から鱗が落ちる思いがした。言い換えると、土地から得られる収益は所有者のものになるが、土地から収益が得られず負担ばかりの「負の財産」になったときは、個人任せにせず社会がこれに対処するべきだということだろうか。まさにこの「公と私の関係」こそが、僕の迷い込んだ袋小路の行き止まりだ。「幸福は個人のものだが、不幸は社会のもの」ということか。

 

実際、負の財産となってしまった土地を保有しているのは裕福な所有者であり、他の収益でこの負担を補てんすることができている。資産家にしてみれば、負の資産は節税用の負債のようなものであり、正と負の資産双方を持つことで、より大きな資産を保有できる訳だ。社会の側から見れば、「収益もないのに固定資産税を負担してくれるありがたい存在」ということで解決済みだ。しかし、こうして負の財産を抱え込まれてしまうと、たとえそれらを活用することで正の財産に変化する可能性があっても、その芽はことごとく潰されてしまう。「たとえ収益を生まなくても、その負担を軽減するために無償で土地を使わせてほしい」という僕の提案は、なかなか理解してもらえない。

 

だが、負の資産を公共財と考えることで、社会は大きなメリットを生み出すことができる。放置され負担を負うだけの土地を公開し、所有者の負担を分かち合う人に所有権を分け与え、所有者として自由に使わせることが可能となる。その場合、所有者にとってのデメリットは、収益が発生して税金がかかることだ。だったら、収益を所得にせず、土地の保全や整備に再投資すればいいだけのこと。やはり僕の取り組みは、経済学的イノベーションなのかもしれない。Yさんの言葉のおかげで、ぼくは重たい扉を開けられそうな勇気と元気が湧いてきた。

 

考えてみれば、活力ある経済とは、稼いだお金をじゃんじゃん使うことを意味している。お金は貯めこむためにあるのでなく、自分を育て、世界を作り出すために使うべきものだったはず。それを極端に溜め込んでいるのが、現代日本の実像だと僕は思う。ところが、お金を溜め込むおかげでインフレにならず、物価が安いと喜ばれ、銀行の預金を吐き出させるための低金利政策が、国の膨大な借金を支え、借金頼みの制度事業や助成金に群がるビジネスが利益を溜め込むという悪循環は加速するばかり。貧富の格差はこうして広がり、富裕層が負の財産まで抱え込むため、貧しい人は手ぶらでチャレンジするしかない。正と負の財産をまとめて保有するのはやめませんか。僕が目指すのは、富裕層がせめて負の財産を吐き出す社会。その結果、増えてしまった収益を社会に再投資して、無駄な税金を払わない社会だと分かってきた。

 

Yさん、ありがとうございました。また近々、一杯やりましょうね!