攻撃は最低の防御

「攻撃は最大の防御」というけれど、それって良いことなのか悪いことなのかこの言葉からは何もわからない。だからあえて「攻撃は最低の防御」と言ってみた。これを聞いてあなたは一体どう思うだろうか。「そう言われてみれば、確かにそうかもしれない」と思う人と、「いや、攻撃こそ最高の防御だ」と思う人に分かれるのではないかと思う。実は僕自身の中にも二人の自分がいて、どちらを選ぶかを迷ったのだが、その時ふと考えた。「そもそも人々の考えは、なぜ二つに分かれるのだろう」と。

少し冷静になって考えると、攻撃と防御をどう定義するかによってこの議論は変わってくることに気付く。例えば「攻めることを攻撃、攻めないことを防御」とすれば、そもそも「攻撃は防御ではない」となってしまうし、「攻めることを攻撃、攻められないことを防御」とすれば、確かに攻撃中の防御は必要無くなるかもしれない。サッカーの試合を見ていると、いくら一方的に相手陣内で攻め続けても、たった一蹴りのロングシュートやカウンター攻撃で負けてしまうことはよくあることだ。弱いチームはやみくもに攻め込んでも勝ち目がないから守りを固めるし、強いチームは攻め込まなくては勝てないので守ってばかりはいられない。つまりこれは、攻撃が防御を兼ねる「強いチームの論理」ということかも知れない。

しかし、現実の戦いは、戦う前から始まっている。とても攻撃的な人と、温厚な人がいた場合、攻撃的な人はたとえ裸でも先制攻撃をするかもしれないが、温厚な人は自ら攻撃することはしない。つまり、実際に攻撃するかどうかではなく、「攻撃をする可能性」を防御と考えるのが「抑止力」だ。核兵器は、こうした論理のもとに存在する。暴力団やジャイアンだって、常に乱暴者でいるわけではない。「いざというときは怖いぞ」とばかりに見せしめ的な暴力を使うことが、抑止力という防御になっている。世界を統率する超大国のアメリカと、孤立した弱小国の北朝鮮が、同じ核兵器に依存しているのは何とも皮肉な話だ。北朝鮮は、国民生活を犠牲にしてまでも核実験やミサイル発射に資金を投じ、アメリカは国家でないことを口実に「テロ組織との戦争」をし続ける。「攻撃は最大の防御」とは、弱者も強者も「強く見せること」なのだろうか。

しかし僕は、この理屈は間違いだと思う。攻撃力が抑止力となったとしても、それが防御力になったわけではなく、防御の必要が無くなるだけのこと。攻撃は「防御の最小化」を招いただけのこと、あえて言うならば「攻撃は最小の防御」となってしまう。だが待てよ、だとしたらその逆はどうなのか。「防御とは何なのか?」という疑問がむらむらと湧いてくる。SF映画に出てくるような「シールド」や「バリアー」のように、いくら攻撃を受けても跳ね返してしまう究極の盾のようなものがあったとしたら、攻撃は無力化し、相手は攻撃する気力を失うだろう。つまり、防御とは「攻撃の最小化」を招くものなのではないのだろうかと。

そこで僕は、「攻撃は最小の防御」とせず、あえて侮蔑の意味を込めて「最低の防御」と評することにした。なぜなら「最高の防御」とは攻撃を無力化するものなのだから。攻撃をすることで防御しないで済む世界を作りたいのか、防御することで攻撃の無い世界を作りたいのか・・・僕は後者に挑みたい。それは攻撃することが「不快で」「恥ずかしく」「無駄な」世界をつくること。ましてや、相手と向き合ってきちんと対立しようともせず、負けないために強いふりをするなど、弱虫のやることだ。最高の防御は、本当の意味で強くなることだ。その難しさに挑むことが強さなのかもしれない。