友達付きアパート

笑恵館アパートの内見にやってきたCさんは、キューバから日本のK大学に留学中の男性だ。現在居住中の宿舎を出なければならず、来年3月までの住まいを探しているのだが、外国人の短期居住など普通のアパートは受け付けない。そこで、「キューバ旅行でいつもお世話になっている」とおっしゃる砧むらOBKメンバーのKさんが、笑恵館に連れて来てくださった。個人が住まいを開放し、会員制のコミュニティを作る「みんなの家」という笑恵館のコンセプトを説明し、館内をご案内すると、Cさんは「僕は社会学を専攻していますので、とても面白いと思います」目を輝かせてくれた。「このアパートには、たくさん友達がいるんですね」という彼に言葉にむしろこちらがドキッとした。

「みんなの家」とは「みんなが自分の家と思う家」のこと。だからこれまで、笑恵館クラブのことを「笑恵館を自分の家と思って利用する人達のコミュニティ」と説明してきた。そしてこれを、「新しい家族の定義」にしようと考えた。「自分の家としてその家を生かし、継承していく人たち」がいなくなることこそが「空き家を生み出す原因」だと考えたからだ。しかし、これを「家族」と呼んでもたいていの人はぴんと来ない。さんざん考えた末の僕だからこそ、その言葉に思いを込めているが、人々はそんなことを知る由もない。だから僕自身、Cさんが「友達」といったのを聞いて、それが自然な理解だし、その言葉がしっくりくると感じたわけだ。ここで「それを僕は家族と呼ぶんです」などという議論をするのは、野暮なこと。

だが、だとすれば、僕は一体どうすればいいんだろう。「家族」の崩壊が叫ばれる中、それを解決するには「家族」を救うか「家族」の定義を変えるかのどちらかだという考え方は安易すぎる。「家族」という言葉がもつ「拘束力」や「帰属意識」が人々に及ぼす影響は様々だ。「家族」が救いになる人もいれば、「家族」が足かせになる人もいる。その結果「家族」を求める人もいれば「家族」を疎ましく思う人もいる。もしもこれが、「家族の良い面と悪い面」だとすれば、この二つをきちんと分け、別の言葉をあてがうべきだろう。だがもしも、これが「家族という概念の功罪」だとすれば、その解決の糸口は別に求めるべきではないだろうか。だがこうした議論さえ、机上の空論だ。現実はすべての問題と答えが混然一体となった一つでしかない。考えるという行為そのものが、1つの現実を頭の中で分解整理し、理解したり再構築しているに過ぎない。

困ったときは原点に帰ろう。ビジネスは、自分で決めた事業目的を、ヒト・モノ・カネ・情報を駆使して実現すること。問題は「僕の目的は何なのか」ということを忘れてはいけない。だとすれば、さっきの議論は「自分の目的を他人にも理解してもらうことによって実現する」ことになってないだろうか。それは、僕がやりたい「ビジネス」とは違うものだ。ここでの「僕の目的」は、家や土地を永続的に利活用する人々のコミュニティを作ること。それが住宅で実現すれば「家族」だし、店舗や事業所で実現すれば「会社」かも知れない。賃貸アパートで暮らす人が「友達」となることでそれが実現するならば、それも答えに違いない。「永続的に続くこと」が、家族や会社や友達の良い面だと思えることは、それを目指す理由の一つに過ぎない。僕はもっと、トータルなイメージとして「永続性の危機」に立ち向かっているのだと思う。

細かいことを言えば、笑恵館クラブの会員は「友達」とは言えない。笑恵館クラブに入会しても全員と「友達」になれるわけでもない。だが、そこには450人の人と友達になれる可能性が確かにある。キューバからやってきた若者にとって、そんな可能性があるアパートと、隣に誰が住んでいるかわからないアパートとでは、雲泥の差だ。Cさんが「友達のいるアパート」と言ってくれたことから、むしろ僕はそのことを教わった。目的実現のため、真剣に見て真剣に聞くことで得られる「発見や気づき」がビジネスのご馳走だ。そしてもし、Cさんが入居してくれたら、笑恵館で「キューバを知ろう」というイベントを開こう。そして来年4月以降、Cさんを訪ねてキューバに行こう。僕の頭の中は、またいつも通りになってきた。