書籍文化は残るのか

先日笑恵館に相談に見えたRさんに、名栗の森で知り合った友人のHさんを紹介し、図書館について議論した。笑恵館で終活イベントを開催するTさんのご紹介で見えたRさんは、文学者の父上の蔵書管理に取り組むうちに図書館(文学館)構想の実現を目指すようになったという。一方Hさんとは名栗の森で知り合った際、某印刷会社に勤めながら、図書館や書店作りのプロジェクトに関わっていると聞いた。僕の頭の中で、瞬時にこの二人がつながって、Facebookで紹介したところ、もともとお二人は知らぬ仲では無かったという。初めての「山の日」ということで、休館日だった笑恵館に二人を招いて話し始めると、議論は思わぬ展開を見せ、僕はすっかりのめりこんでいった。

Rさんの説明に対し、「文学者が自分の蔵書を残したいと思う気持ちは、典型的は文系研究者のモチベーションなんですよ」といきなり切り返したHさんの言葉に、「なるほど、そうですね」と答えるRさんを見て、僕は目を見張った。確かに研究者が自分の考察や創作で未来を変えたいのか、名を残したいのかの違いは、周囲にとっては大問題だ。しかし、その違いを「文系」とばっさり言い切るところが僕は気に入った。今日は、少し議論ができるかもしれないぞ。Rさんが続けて「実は、蔵書の寄贈先や活用先を求めて、大学や研究機関、行政などいろいろ回ったのですが、文系、特に文学・文芸については人も金も集まらないので相手にしてもらえませんでした」と言う。確かに教育行政においても、理系志向の傾向ははっきりしていて、リケジョ(理系女子)などと言う言葉ももてはやされている。

「しかし、それを嘆いて思考停止状態にある文系研究者にも問題がある。僕の研究の偉大さが君たちにはわからないのかと言わんばかりだ」と、Hさんは指摘する。そこで僕は「いや、思考停止しているのは理系も同じ。研究者は研究に集中すべきで、それを活かすのは社会の側の問題だ」と返した。理系の研究や創作が重視されるのは、それが製品開発や課題解決に直接貢献し得るからで、企業がビジネスとして投資可能な状況を作り出している。一方、廃れ行く文系の研究は、それがなされていない。しかし、商品のコアコンテンツはシステムそのものでなくそのキャラクターだ。どんなに性能が良くてもその商品イメージとブランド力が求められる。宇宙空間だって、ダークマターやブラックホールだけではつまらない。星や星雲の美しさがあればこそ、人は宇宙に魅了される。

そこで僕は、文系と理系の違いについて得意の持論を披露した。理科の時間に「宇宙は”なぜ”生まれたのですか?」と質問すると「なぜじゃなく、宇宙はどうやって生まれたかを考えよう」と言われるし、歴史の時間に「千利休の死因は出血多量ですか?」などと聞くと「そんなことはどうでもいい、千利休がなぜ切腹させられたのかが大切だ」と叱られる。つまり、文系は「なぜ(why)」を考える学問で、理系は「どうやって(how)」を考える学問だ。我々人間は、感じたことから「なぜ」を考え、「どうするか」を考えて行動する。「なぜ」と「どうやって」はすべての手段(what)の目的(why)と方法(how)、つまり表裏の関係のような関係にある。だから、理系と文系は並列に置いて比べるものではない。すべてのものには文系的側面と理系的側面がある。文学を文系と決めつけるからビジネスにならないのであって、文学の理系的側面・・・つまり人間に及ぼす生理的影響や、世界にもたらす社会的影響について考え、その実現を目指すべきではないか。

いや、本当はこんなにかっこよく語れなかったので、言いたかったことを整理してみた。僕自身、「建築」と言う理系だか文系だかよくわからない分野の仕事をするうちに、こんな発想ができるようになったのかもしれない。そして最後に、Hさんから「図書館は何のため」という興味深い話があったので簡単に紹介したい。

日本は戦争に負けるまで、国を強くすることで他国の侵略を退ける・・・という大命題を掲げ、社会を作ってきた。中でも、識字率の高さを生かし報道・文芸などの活字文化が、国民の教育に重要な役割を果たした。この反省から終戦後「図書館」は国民の基本的生存権の文化的側面の担い手として位置づけられた。すべての地方公共団体は小中学校と地域の全域を網羅する公立図書館の設置を義務付けられ、図書業務にあたる司書の養成が始まった。この話を聞くまで、僕は無料で本を貸し出し、書店の商売を脅かす図書館がなぜ国中になければならないのかと疑問を感じていた。さらに言えば、書籍に再販制度が適用されているのも、もとはと言えば全国の国民に書籍を平等に供給するための配慮だったとH氏は言う。確かに今どき再販制度などと言っているのはたばこと書籍くらいなものだが、書籍が生活必需品と考えられたと聞けば、確かに納得できる。

活字文化はどうなるのか、書籍の保存はどうするのか、社会の変化にどのように対応すべきか悩ましい。だが、社会の変化は今に始まったことでなく、現存する昔の書籍たちは、この激動の時代を生き残ってきたつわものだ。自分の大切なものを引き継いでほしいと願う気持ちもわかるけど、それが引き継がれていくかどうかは引き継ぐ側が決めること。提示した目的が社会を動機づけ、提示した方法がそれを実現した場合のみが残るという意味で、「適者生存」の原則から抜け出すことは難しいだろう。かといって、収益さえ上がればいいというT社方式が答えとも思えない。だからこそ「自分から大切なんだとわめく」のでなく、「周囲から大切に思われる」にはどうしたらいいのかが問題であり、そもそもそれこそが「価値」なのではないだろうか。