無料ビジネスの知恵比べ

僕は福祉の現状に怒っている

  • 待機児童が何千人とか、待機老人が何万人とか、こんなの福祉と言えるのだろうか。
  • 福祉サービスって、対象者全員が受けられるものじゃないのか。
  • 早い者勝ちの有償サービスを「福祉」と呼ぶって、おかしくないのか。
  • 受益者負担と言うけれど、それってホントに正しいやり方なのか。
  • 福祉はみんなのためだから役所が担当するっておかしくないか。
  • 収支の成り立たないサービスを平然と続けているのは誰のせいだ。
  • 福祉はどんな未来を目指しているのか。

とても大きな、複雑な、そして大事な議論なので、簡単に論じるのは難しい。

だがあえて、大雑把にでも論じなければ気が収まらない。

突っ込みどころ満載、ぼこぼこに批判されてもかまわないから、思いのたけをぶちまけたい。

福祉サービスを受けられずに待っている人がいることに僕は疑問を感じる。

ヨーロッパの国々が医療や教育を無料にしているのは、金持ちで気前がいいのではなく、誰もがサービスを受けられるようにするためだ。

日本にだって無料で入れる公園や、無料で通れる道路がたくさんある。

教育が無料と言うことは、公園と同じくらい誰もが利用できるべきだ考えるからだ。

だから、全員が行かなければならないわけではなく、希望者だけが行けばいい。

無料だからと言って全員が大学に行くわけではなく、むしろ教育費の高い日本の進学率の方が高いくらいだ。

そして、全員に提供するためにはやりくりだって大変だ。

費用負担を減らすため、事業者と受益者双方が協力しなければならない。

スウェーデンでは小学校の遠足でバスに乗る予算が無いので歩いていくというが、それは制度と揶揄するのは間違いで、むしろ制度維持のための努力だと僕は思う。

日本には特別養護老人ホームと言う素晴らしい介護施設が整っているが、数万人にも及ぶ入所希望者が順番を待っているという。

この話の一体どこが「福祉」と言えるのか、僕にはまるで理解できない。

「この施設に格安で入居できること」を福祉というのなら、それを必要としている人は何人いて、施設がいつまでにいくつ必要なのかくらい考えて当然だ。

そしてその設備が必要なだけ提供され、「だれもが安心して老後を暮らせること」を「福祉」と言うのではないだろうか。

ところが現実はその逆で、施設に入れる人とは入れない人の格差は広がる一方だ。

格差解消が福祉の目的のはず、格差を生み出す仕組みになり果てているのではないかと思う。

保育園や障害者施設などでも同様の事態を招いている。

福祉そのものが救済すべき人を生み出している。

こうした問題に直面している我々市民もまた、その解決を役所任せにしている。

選挙中の家たちも、調子のいい公約を並べて「解決する」と安請け合いするばかり。

しかしそもそも、これらの事業の多くは民間企業や市民の取り組みの中から役所や政治家が良いとこ取りをして「市民が喜ぶお金の使い道」として採用しているだけのこと。

だから病院や図書館は元気な高齢者のサロンと化し、子育て支援施設には厚化粧の暇な主婦がヴィトンのバッグを持って現れる。

医療、介護や保育の現場では従事者が疲れ果て、さらなる病人を生み出している。

いくら矛盾していようが、採算度外視で助成金がつぎ込まれ、その負担が増え続ける事業だらけでは、どんなにだらしない民間企業よりもたちが悪い。

それを賄うために赤字国債を発行し増税し続ける国を、当てにしている国民は大馬鹿だ。

そこで僕は、「福祉ビジネス」をやってみようと思う。

それは、僕らが目指す社会を実現するために必要なサービスを無償で提供するビジネスだ。

もちろんそのためには、ヒト・モノ・カネ・情報など様々な資源が必要だ。

だから、それらを稼ぐためしっかり商売しなければならない。

例えば僕の居場所のは、入会費500円で会員登録すれば、自由にスペースを利用することができる。

僕自身このサービスを活用し、家賃ゼロでここを事務所代わりに活用している。

このサービスを提供するためには、毎日誰かがスペースを管理し、光熱費を負担し、保全整備をしなければならない。

そこで、アパート収入で得た収益をこれらの費用に充当する。

事業収益を余剰資金としてため込むのでなく、サービスと言う形で社会に投資しようと考えた。

僕は福祉も同じことではないかと考える。

必要なサービスは無償で提供し、その見返りをどう求めるのかを考えることこそが、新しい「福祉ビジネス」のあり方だ。

いま、GoogleやFacebookなどの巨大ビジネスが、まさに無償のサービスを提供し我々は大きな恩恵を受けている。

そこには当然有償サービスが付加されているが、それを利用しなくても最低限のサービスは受けられる。

福祉とは、この最低限のサービスのこと。

子供を産むこと、勉強すること、死なない程度の食事や医療、路上で野垂れ死にしない程度の老後の暮らしなどが、最低限保障されている世界で僕は暮らしてみたい。

そして、もっと高度な競争やチャレンジをしてみたい。

そのためには、保証のレベルを限界まで下げてもかまわない。

誰もが安心できることが最優先であり、そのレベルを向上させるのは後の話だ。

サービスが全員に行き渡ってもいないのに、その質を論じること自体が間違いだ。

まずはレベルを下げ、内容の不満でなく享受できない不満を解消すべきだ。

そのためには、「全員が使える休眠資源」をどんどん掘り起こし、無償で開放すべきだと思う。

僕にとってはそれがだ。

場所という永久資源を使って課題解決に挑むゲームに、もっと参加して欲しい。

「タダで貸すなら貸さない方がまし」ではGoogleやFacebookは成り立たない。

ポケモンGOでさえ、ダウンロードは無料でできる。

無料でどこまで提供できるか・・・と言う競争が、福祉ビジネスの競争だ。

役所の無償はお金をばらまいているに過ぎない。

本当の無料サービスを提供したあとで、ヒト・モノ・カネ・情報の収益をガッポリ掴むには、どうするか・・・そんな知恵比べが今ぞ!