ゲームとルール

サッカーや野球に夢中になるのは、それが面白いから。そしてその面白さは、勝ち負けを競うスリル、技を磨く努力、仲間と分かち合う喜びなど様々だ。だが、これらすべてを生み出すのは、そのルールだと思う。ルールがなければゲームは成立しないし、ルールから外れた努力は無駄だし、ルールを知らずに見てもその面白さはわからない。だから「ゲーム=ルール」といってもいいと思う。だとすれば、このルールだらけの現実の世界を【ゲーム】として楽しめないか、というのが僕の提案だ。それは一握りの独裁者や権力者だけのものではなく、世界の頂点を極める人から道端で戯れる子供たちまでが楽しめるまさにサッカーのように、世界中の誰もが参加できるゲームになるはずだ。そもそも、僕らが様々なゲームに興じるのは、これこそが僕らの求めているものなのかもしれない。そして、世界をゲームとして楽しむための、準備や練習をしているとすら思えてくる。

世界の様々なルールは、公正や公平を守ることで正しい世界を作るため・・・と言われるが、それではなぜ正しい世界を作らなければならないのか。それは、「フェアじゃないとゲームが面白くない」からだ。考えてみると「公平や公正」とは、競うためのルールであり、「競争」はゲームの面白さの大切な要素だ。生物学において「競争」とは、生物の個体同士が生息域や食糧、配偶相手などを争うこと。同種個体間に見られる「種内競争」と、違う種間に見られる「種間競争」の二つがある。ビジネスでいえば「同業者との競争」と「異業種との競争」だ。ラーメン屋同士がいくら競っても、うどんの人気が高まって客を取られたらラーメン屋は大変だ。ところが、それでも生き残るラーメン屋になるにはどうすればいいのか・・・が、世界というゲームだ。だからこのゲームには、地球上のすべての生き物が参加している。人間同意の殺し合いは禁じられているが、ライオンがシマウマを殺すのは許されている。人間中心の「公正・公平」など、何の意味もない。他を滅ぼしてしまったら、人間だって生き残れない。

ルールを守って、まじめにやれ、真剣にやれ・・・と言われるが、なぜまじめにやらなければいけないのか。それは「ゲームはまじめにやらなきゃつまらない」からだ。サッカーなのに手を使ったり、足を引っかけたりばかりではゲームにならないし、へたくそなうえにダラダラしていたら見ていても不愉快だ。ゲームとは、どんなにバカバカしいことでも、真剣に取り組むことで面白くなる。しかし考えてみると、「バカバカしい」とは何のことか。辞書で引くと、重要でないとか価値がないという意味のようだが、物事にはあらかじめ重要性や価値などあるのだろうか。僕はそうは思わない。みんなが大事にするから大事なものになる、みんなが真剣に取り組むから価値ができる、とそういう順番だと思う。「まじめにやること」が「そこに価値を作ること」だとしたら、それをやらない手はない。誰もが見落としていたことを、真剣に極めることこそが、価値を生み出すルールに違いない。

そして、ルールの違いが対立を生み、争いの元となる・・・と言われるが、なぜ人々はルールの違いを受け入れられないのだろう。宗教、政治、経済など、世界を形作る様々なルールはそれぞれの目的を持ち、違うゴールを目指しているからだと僕は思う。例えば、政治・経済の垣根を取り払うEUに参加を望む国もあれば離脱を望む国もある。「イスラム国」にはすでに2千万人を超す国民がいて、学校も税金もあるというのに、これを国とは認めない国がたくさんある。しかし一方で、普段これほど対立している中国や北朝鮮とでさえ、サッカーの試合はできるし、互いの料理を「美味しい」と言って食べている。世界各地で紛争が絶えないのに、オリンピックには200以上の国や地域が集まって、のんきに運動会を楽しんでいる。対立も協調も、実はゲームに過ぎない。自分に都合のよいルールを目指し、仲間に自爆までさせながら、真剣にゲームに取り組むテロ集団を世界は決して無視できない。

今、インターネットやSNSが世界を変えているのは、コミュニケーションのルールを変えたためだ。新たなルールが提示され、人々がそのルールを支持するとなると、ゲームは至る所で開始される。必要な資源や技術の投入もまた、ゲームの一部となり、真剣なプレイヤーが頭角を現し賞賛を集める。それは人間だけの仕業でなく、太古の昔から地球上で繰り返されてきたゲームだと思う。あるゲームはローカルな地域に適応して進化を極め、あるゲームは汎用性を帯びて世界に広まる。かつてビルゲイツが「やがてパソコンが世界を変える」と言っていたが、彼がしたことは「誰もがパソコンを使いこなす世界」を思い描き、その時に必要なルールを提示したことだ。やがてそこに世界中からプレイヤーが参加して、壮大なゲームが始まった。なるべくしてなったのではなく、すべてはゲームを面白くするためのルール作りだったと思う。

世界全体や身近な社会に対して、願いや不満を感じたら、それを実現・解決した状態をイメージし、そこにあるはずのルールを考えてみたらどうだろう。例えば、戦争がない世界では「決着がつかないときの決め方のルール」があるはずだし、老後の心配がない世界では「持続可能な看病や介護のルール」があるはずだ。むしろ今、それが無いから問題は解決しない。それを考えなければ、思いつくはずもない。それを考えずに今日を暮らしているようでは、永久に何も解決しない。だから僕は解決に挑む「ゲーム」を楽しみたい。そのために必要なことは、自分自身で問題を生み出すこと。そしてその解決にあたっての制約条件をルールにして、さっさとゲームを始めることだ。