G7サミットにおける「世界と地域」

G7サミットとは、先進7か国首脳会議のこと。そもそもサミットは、冷戦下の1973年のオイルショックと、それに続く世界不況に対処するためにアメリカ・ヨーロッパ・日本の財務大臣が集まって始められた。やがて、せっかく首脳が集まるのだから環境や軍縮も取り扱おうということになり、冷戦終結後はしばらくロシアも加えG8になったが、現在はG7に落ち着いている。G7サミットに関する賛否や是非論は多数あるが、「世界」を理解する上でこの会議が重要なのは間違いない。今回の争点ともいわれる「財政出動か構造改革か」と言う問題についても、各国の意見が対立し、玉虫色の共同宣言で終わったとされているが、それは政府の思惑とマスコミの怠慢、そして何より国民のお任せ気質によるものだ。同じテレビ報道を見ていても、僕の目には間違いなく「問題の核心」と「各国の違い」が見て取れる。だからここでは、そんなお話をしてみたい。

そもそも世界各国は、異なる背景と仕組みで動いている。これが同じであれば、国を分ける必要はないわけで、会議に集まる各国は、違う課題を抱え違う答えを求めている。例えば、財政出動を主張する日本は構造改革を求めるドイツと対立する。実質的に財政破綻している日本では、さらに借金してでもばらまき行政をして、税収を増やすシナリオしか思いつかない安倍政府が国を代表し、一方ではEUの破たんを食い止めるために、憎まれ役を引き受けざるを得ないドイツを代表するメルケル首相は一貫して財政の立て直しの最優先を訴える。残りのヨーロッパ諸国は財政も雇用も低迷し、どちらかと言えば日本同様国民の顔色ばかり見ているので、ドイツとは対立している。アメリカも、自分の負担を減らすため、各国にバラマキをやらせたいので、結局メルケルの緊縮派が少数派となる。民主主義と多数決を混同する人から見れば、ドイツの意見は「ご立派だが非現実的少数意見」とされてしまうが、それはとんちんかんな話だと僕は思う。

僕から見れば、まともなことを言っているのはドイツのメルケル首相だけ。あとは人気稼業の政治屋さんだ。G7サミットは、「各国の国民を代表する先進国の話し合いの場」ではなく、「国家予算7大国のお役所のトップ会議」のはずだ。その会議において、「ばらまきと節約」の是非を論じていること自体がチャンチャラおかしい。「各国が協調して節約すること」を前提に、その内容について議論して、強い意思表明をするための会議ではないだろうか。メルケル首相が「景気回復は民間経済に任せるべき、我々のやるべきことは、それを促す構造改革よりほかにない。」というのに対し、安倍首相が「財政出動で景気を押し上げ、税収増で財政を立て直します」と述べているのをテレビで見て、僕は愕然とした。なぜなら、ドイツも日本もこの言葉の結果として現状があるからだ。

ドイツでは、公共施設の老朽化などぎりぎりの辛抱をしながら、堅調な財政と経済を維持しているが、日本は借金の山を重ね、経済を補助金漬けにし、国民の貧困化を促進している。安倍首相は、安全保障に関しては国民の意思よりも国家の利益を優先すると豪語するが、経済においては国民へのばらまきを優先し国家を破たんへと導いている。僕はドイツを賛美したいのではなく、ドイツの言い分がいかにもお役所らしいのに対し、日本の理屈はまるで借金まみれで倒産寸前の社長の言い分にそっくりだということだ。政治家が人気取りに走るのは無理もないことかもしれないが、役所は憎まれ役にならなければならない。だからこそ、その身分は保証され、解雇される心配もない。僕は役所で「お客様」とか言われると虫唾が走る。これこそが社会の「公私混同」ではないだろうか。

サミットの対立は、その政策以前に役所×政治屋の戦いになっている。僕の理解では「総理大臣は行政の長であり、国民の代表では無い」はずだ。だから、本来サミットには「大統領」が出席すべきではない。大統領は「国家元首」という王様と対等な国民の代表であり、経済の素人でも務まるからだ。それでも決裁権が大統領にあるというなら、それもいいだろう。だが問題は、行政と政治が一緒ごたになり、G7サミットが各国の顔を立てる記念写真の場になっていることだ。これは明らかに、三権分立が崩壊している弊害だ。安倍総理が総理大臣として国の安全を確保するために、国民から憎まれることをいとわない態度は間違いではないと思う。だが、その見返りに金利を下げ、ばらまきを行うのは、完全に政治屋としての人気取りであり、役人の長としての総理大臣としては、最悪の公私混同だ。こうした構造は各国でも同様で、G7サミットにも持ち込まれている。その結果、EUという超国家組織でお目付け役を担うドイツだけが、次元の異なる振る舞いを見せているのかもしれない。

そう、EUの存在もまた、G7サミットを分かりにくくしている。国際連合が世界平和を基調とした組織なのに対し、EUは明らかに経済を基調とした連合体だ。国連は世界統一など目指さないが、EUはヨーロッパの統合を目指している。ドイツを「異次元」と評したが、それはEU存続の責任を自ら背負っているという意味だ。世界のリーダーを自任するアメリカと、EUのリーダーを自任するドイツとでは、その責任範囲の次元が違う。EUは、参加国を除名することも自ら脱退することの可能だが、国連はそうはいかない。たとえ日本と国交がなくても北朝鮮は加盟しているし、決して無視できない経済規模を持つ台湾が加盟できずにいる。存続のために厳しい条件を課すことができるのは、EUが世界の一部分にすぎないからであり、全世界の存続を目指すためには、実情よりも合意が優先するのかもしれない。つまり、たとえ将来破たんを招くことが分かっていても、全員が一致して今を乗り切る「玉虫色のコンセンサス」が求められるのかもしれない。

こうして国家間の関係は、対立を招くような課題解決よりは、対立を回避するための先送りを選択することになるのだろう。だとすれば、我ら市民は国単位での解決を諦め、個別地域ごとの解決を目指すべきではないだろうか。そもそも国や世界に対し、問題の全体的解決を求めるからもどかしい。国や国連には「対立の回避=存続」に専念してもらい、「現実問題=繁栄」は地域社会やEUなど個別や部分が取り組めばいいと思う。全体の存続とは、全部の存続ではなく、滅亡の回避のこと。1,800市町村のすべてを活性化させるというきれいごとのために借金とバラマキを続けるのでなく、たとえ900でも実際に活気づいた市町村が全体を支える社会を目指すべきだと僕は思う。