自然と所有

先日、千葉県のFMラジオ局BAYFMの自然環境文化の番組「ラブ・アワ・ベイ」から、多世代間のコミュニケーションの場として笑恵館の話を聞かせてほしい・・・との依頼を受け、パーソナリティとスタッフの方たちが収録にお越しになりました。笑恵館のできた経緯や、その後の展開、エピソードなどをお話しした後、番組のテーマである「自然との共生」という観点から「松村さんにとって、自然とはどのような存在ですか?また人が自然と共生するために必要なことは何だとお考えですか?」という問いかけがありました。それに対し「今の僕にとって、自然とは所有すべき対象です。」と答えました。

今回石川県の山郷の古民家の管理運営を始めるにあたり、都内の一般の不動産との最大の違いは、そこは単なる土地と建物だけでなく、畑や田んぼさらには山や川など多くの自然が含まれていることです。自然とは、一言でいえば「人間の力ではどうにもならないこと」、太陽や雨などの気候、動物や植物、細菌などの生物、資源など地球が育むすべてのことです。山の樹木の手入れを怠ると、周辺に倒木や落葉の迷惑をかけてしまいます。水源や水路の管理を怠ると下流に迷惑をかけてしまいます。前面道路の雪かきを怠ると集落内の交通を遮断してしまいます。これらの責任は、すべて所有者が問われることになります。自然といえども、それは必ず誰かのものであり、その人が管理責任を負うのが現実です。

ところが、都会に暮らしていると、生活に必要なすべて・・・つまり電気とガスと水道の供給、通信や輸送システム、ごみや下水処理などをサービスとして享受しており、それらすべてがお金で入手可能です。誰もが周囲に迷惑をかけないように暮らしていて、コントロールできない自然は誰のものでもありません。迷惑が生じれば、それは役所に電話して何とかしてもらうのが当たり前です。周囲に迷惑をかけないからには、周囲からの迷惑にも過敏となり、動物の鳴き声どころか子供の声までも騒音として訴える始末です。世界は自分のためにあり、自分は誰の世話にもならずに生きているような錯覚に陥っています。

そんな僕にとって「自然との共生」とは「どうしようもないものとの共生」という意味になります。どうしようもないものを排除せず受け入れることは、当然のことだと思います。なので、むしろその逆の方に問題があると思います。それは「自分に都合のよいものだけ受け入れる暮らしや生き方」ともいえるでしょう。僕は、田舎の山や川を所有する身になることで、このことを悟りました。「当事者とは、所有者のこと」と言っても過言ではないのかもしれません。

日本の国土面積は約37万平方キロメートルありますが、そのうち約16万平方キロメートルが民有地です。空き家や放棄地が増え続けているのは、この民有地を持て余してことにほかなりませんが、さらに恐ろしいのは残りの21万平方キロメートルの責任をだれが負うのかということです。国や役所が、その土地の行く末を心配しているとは思えません。そこには一人も所有者がいませんから、担当でなくなれば何の責任もありません。少なくとも日本は、「自然」は誰かのものだったから守られてきたのではないでしょうか。誰のものでもない自然は人間との共生など求めていません。僕たちは「自然との共生」などと悠長なことを言っていてもよいのでしょうか?