今回僕が挑むのは、自分の考え方をいくつかの系統に分け、「学問のカタチ」にして整理すること。この章で全体のイメージを作り、4つの学問にまとめれば、ちょうど5つの意見になる。頭の中に散らかっていることを、とにかく4つに分け、並べてみたいと思う。なぜ4つなのかといえば根拠はない。4つに分けることは間違いかもしれない。でもそれは、やってみればわかること。

4つの分類は、次のように考えた。

  • 実現学
    「知っているが説明できない自分の目的」を言語化・可視化することで、その実現を図る考え方。これまで「起業マインドサイト」と呼んでいた。
  • 世界学
    世界を言葉で理解するのでなく、言葉を使って世界そのものを理解するという考え方。これまで「言葉は世界でできている」と呼んでいた。
  • 学問学
    学問を他人と知識を共有するためだけでなく、自分の知りたいことを知る道具として使いこなす考え方。これまで「夢高校」と呼んでいた。
  • 自分学
    柔軟な思考によって生み出される多様な仮説の中から、自分の答え(仮説)を選択し、その是非を客観的に検討する考え方。「自分の意見」と名付けたこのサロンが、これに該当する。

こうして並べながら説明を加えることが「考える」という作業だ。4つの順番は、実際に発信し始めた順番なので、きっと何かの意味を持つのだろう。どれも完成には程遠いが、必要に応じて生まれたものならどこかに向かっているに違いない。自分自身と向き合うことこそが、人間であることの醍醐味だ。

 

【実現学】

「知っているが説明できない自分の目的」を言語化・可視化することで、その実現を図る考え方。これまで「起業マインドサイト」と呼んでいたが、実現学として説明するとどうなるのか。あらかじめ何かを思い描き、後にそれが実現すると、思い描いた当初はその内容が不足と不明なことだらけで、判っていることも曖昧だったことがよくわかる。つまり、思いが実現するプロセスとは、思いの不足・不明・曖昧部分が充足・判明・明確化することだ。そこには必ず「事前に明確にすべき前提」と、「事後に判明すればよい結果」の双方がある。この「前提」が明確にならなければ、事業に着手できないし、見切り発車で着手しても成否の判断基準がない。結果は「実現」でなく「まぐれ」になってしまう。ビジネスが「実現」でなければならない理由は、「まぐれ」ではいけないから。したがって、目的を明確にすることは、ビジネスの必須条件となるはずだ。

そこで、「実現」というビジネスの成立要件を満たすため、その前提条件という答えを探す方法論を「実現学」と名付けた。答え探しのための道具として「疑問」を現す言葉「疑問詞=5W1H」を用いて答えを探すのが「実現学」の特長だ。まず「誰にとっても新たな疑問・・・創業」と、「自分にとっての初めての疑問・・・起業」の2つに分け、教わることができることとできないことに分類する。次に疑問詞を「自分に対する疑問・・・why,what,how」と「世界に対する疑問・・・who,where,when)に対応し、「周囲の人から学ぶ交流」と「周囲の世界から学ぶ・・・地域」に分類する。この4つの切り口から自分の想いを具体的に説明するプロセスを5つずつに整理して、全20回のセミナー形式で実施してきた。6つの疑問すべてに対し、必要な前提条件を具体的に出し切ることで、その後の方法論を導き出すことを目指している。さらに、言語化することで、周囲の人から助言や批判を得られるようになり、その内容は自分一人の能力を超えて成長できると考えている。

 

【世界学】

世界を言葉で理解するのでなく、言葉を使って世界そのものを理解するという考え方。これまで「言葉は世界でできている」と呼んでいたが、世界学として説明するとどうなるのか。実現学では、疑問という道具を使って新たな答えを探すのだが、その答が見つかってもそれを説明するには言葉に頼らざるを得ない。見たり聞いたりして確認できるものなら、単に命名すれば済むのだが、まだ見ぬものや見えない概念は、言葉の持つ意味に依存しなければならない。では「言葉の意味」とは一体何か、それは「その言葉が世界の何を指しているのか」を突き止めるしかない。そして、それが確認できない限り、言葉が本当に伝えたいことを伝えている保証はない。今から数年前のある日、「世界は言葉でできている」という人気テレビ番組を見ている時に、僕はふと気が付いた。「世界が言葉でできている」のではなく、「言葉が世界でできている」のではないかと。

例えば「リーダー」とは何か・・・それは「マネージャー」と対比する。リーダーは先頭を歩き、マネージャーはしんがり(最後尾)を務める。どちらも「端を歩く」という共通点がそれ以外のメンバーとの違いを意味し、「先と後」が両者の違いを明確にする。「何と同じで何と違うのか」という説明は「他との比較」という極めて具体的な方法だ。先頭を歩く人の視界には後ろを歩く人は見えていないので、しんがりを歩くマネージャーが全体に目を配り落伍者が出ないように配慮する様子が、絵に書いてみれば一目でわかる。これはまさしく「リーダーとマネージャー」という言葉が得に表した世界の様子を指示しているということだ。これに異を唱えるのなら、もっとふさわしい言葉を探せばよいだけのこと。肝心なのは言葉ではなくその世界の方であり、言葉はみんなの合意で好きに決めればいい。くれぐれも言葉に振り回されず、世界そのものを見るようにしたいと思う。

 

【学問学】

学問を他人と知識を共有するためだけでなく、自分の知りたいことを知る道具として使いこなす考え方。これまで「夢高校」と呼んでいたが、学問学として説明するとどうなるのか。目的を説明するには、言葉の意味の必要性を説明したが、そうなるとまず世界そのものを知らなければ話にならない。多くの人が自分の目的や夢を具体的に語れないのは、それを具体的にイメージできるほど世界を知らないからだ。所詮僕たちは知っていることでしか物事を考えられない。だから知らないことを大いに学ぶために「学問」は存在する。昔ある友人が「学問とは問うことで、学習とは習うことだよ」と言っていたがこれは大事なことを示している。同じことを知ることにより社会の従順な構成員として育てられる教育の道具とされることで「学問」が「学習」と混同されてしまっているのではないか。

世界中の学校で「国語」「算数」「利か」「社会」などの教科に分けた教育がなされているのは、世界の国々が自分に都合の良い教育をするためでなく、世界中が同じ目的を持っていることを示している。その目的とは、誰もが自分の知りたいことを学ぶこと。教科とは、教育の内容でなく、学ぶ対象に応じた学び方の分類だ。例えば、「社会」と「理科」はどちらも世界の仕組みを学ぶ学問だが、「社会は人間から見た世界」を学び「理科は人間に関係ない客観的な世界」を学ぶ学問だ。つまり、全ての教科は何かを教えるためのものでなく、何かを学ぶための技術のはずだ。社会が費用を負担する義務教育の内容が、社会の求めに応じるのはやむを得ないとしても、高校生になったら自分の知りたいことを探したり、学んだりするために「学問という道具」を使うべきだ、学問学は、学問の使い方に関する学問だ。「学問を使って自ら進路を決めること」から人生を始めないと、目隠しをしたまま生きていくことになりかねないと僕は思う。

 

【自分学】

柔軟な思考によって生み出される多様な仮説の中から、自分の答え(仮説)を選択し、その是非を客観的に検討する考え方。「自分の意見」と名付けたこのサロンが、これに該当する。したがって、このサロンで僕が発信する内容が、やがて自分学としてまとまっていくのか、ふらふらと思いつくままに書きおろしている僕自身が、「自分学」の元にゴールを見つけ、そこに向かっていくのかについて、少し考えてみたい。

僕はひょんなきっかけで10年ほど前から世田谷区で「起業相談」を受けるようになったのだが、区役所からは常に成果を問われた。「今年は何人が起業しましたか?」という問いに応えるには「起業」を定義する必要がある。どうしてもそれができずに苦しんでいるうちに、ついにたどり着いたのは、「起業の成否は本人にしか判らないので、その成功を客観的に評価計測するのは無理」という結論だ。それ以来僕は、「1つの答え」というものを信じられなくなった。真実は一つしかないかもしれないが、考え方や価値観は多数存在するのが当然だ。答えを一つしか見いだせないのは議論そのものに問題があるのではとさえ思うようになった。

ある時僕は「意見」という言葉に出会い、「これこそが複数あるべき答えを示す言葉だ!」と思った。自分の考えを「意見」にすることで、常にその目的を自問し、自分に賛否を問うことができる気がした。だがその意味で言えば、現状このサロンにおける、僕の言動、ふるまいには問題がある。それは僕自身が複数選択肢を提示せず、意見と言いながらも決めつけた言い方で済ませている。「意見を述べる」のであれば、自ら複数の仮説を立てそのうち一つを選択するという形を取るべきなのかもしれない、今書きながら、そんなことに気付いた。自分学は、このあたりから始まるのかも知れない。そして、異なる意見を持つ人々が互いを認め合意に至るプロセスに役立つ手法になるのかも知れない。