自然界の多様性は驚きです。人も住めないあらゆる場所に、生物が適応して暮らしています。ある意味でその頂点にいるのが人類ですが、今人類の経済活動は、地球環境を自ら不都合な状況に変えています。経済と環境の両立が叫ばれていますが、その見通しは真っ暗です。考えてみると、これまでの進化には1円もかかりませんでした。たとえお金を払わなくても、自然界では互いが利用し合い、全ての取引はお金なしで成立しています。現にお金を必要としているのは人間だけで、これが不都合の原因であることに、疑いの余地はありません。

お金が無駄とは言いません。お金のおかげで空を飛び、海に潜り、世界を知ることができました。しかし、廃棄物や排出ガスなど、その後始末はできていません。人類の進歩は地球全体はもちろんのこと、人類全体ですら共有できていません。「環境」の字の通り、地球という限定された範囲内でのやりくりはお金では解決しません。地域社会も同様です。お金の力で何でもできるようになるにつれ、地域内で何とかやりくりする努力を怠るようになりました。官・民の巨大で安いサービスに依存するうちに、自分で稼げない地域だらけになりました。地域社会の存続とは、貧しくても自力で生き延びることであり、巨大なサービスに見捨てられないようにすることではないはずです。

私は今、人間として進化をしたいと思います。それは、要領よく生きるのでなく、自力で生きることです。お金の話は後回しにして、まず中身の議論から始めましょう。お金の準備は後回しにして、まずできることからやりましょう!

 

【進化と進歩】

自然界が多様なのは、環境が多様なため。自然は環境に適応しないと生きていけない、というか、適応することが生きていくことと同義語なのかもしれない。これに対して人間はまさに不自然な存在だ。環境に適応するよりも、自分の周囲に自分に都合の良い環境を作り出し、その中で生きている。例えば家は、風雨や寒暖、そして外敵の侵入を防ぐ人工の生活環境だ。さらに自動車は、衝突などの衝撃から身を守りながら高速で移動する環境だし、衣服は人間の活動を妨げない身にまとう環境だ。これらの「人工環境」は、自分の体を進化させて環境に適応するよりも、飛躍的な速度で進歩した。人間は今や、その人工環境を身にまとった存在として、生きている。・

ここで2つの大問題が生じている。一つは人工環境が周囲の環境に適応していないこと。人工環境は生命ではないので、外部環境と適応できずに破損したり劣化しても、修理や交換をすれば済む。そのため、これまで自然界に存在しなかった「ゴミ」を生み出してしまった。考えてみると、現代の環境問題はすべてゴミ問題とも言える。温室効果ガス、放射性廃棄物など、人工環境を維持するためのゴミが私たちを追い詰めている。そしてもう一つは、人工環境そのものが人間を劣化させていること。外敵から身を守ることが孤立を生み、新たな外敵を増やしている。衛生が生み出す潔癖が本来の免疫力や抵抗力を弱め、体を脆弱にしている。そして、その機能が高度化するにつれ、自分自身が楽になり、思考力や運動機能が低下し、さらに安定供給される食物が肥満を招き追い打ちをかける。

今我々は、自分自身の進化と、自分が作り出したものの進歩を分けて考えるべき時を迎えたのではないだろうか。抜け殻だけを残し、中身が滅びてしまったのでは、元も子もないと思う。それとも優秀な抜け殻を作り、これに人工知能を備えて未来を託そうと願っているとでもいうのだろうか。

 

【お金には力がありすぎる】

「自然の変化に対する自分自身の適応」を進化と呼び、「自然の変化に対する人工的な適応」を進歩と呼ぶことにし、両者の違いを検討したい。両者の相違点は「自分自身と自分以外のもの」という部分。その相違点を一言で表すなら「お金」という言葉がふさわしい。自然の変化にお金は一切かからない。だからどんな人でも「やるべき」ことを「やりたい」と思えば「やってよい」。もちろんやりたいことが何でもできるわけではない。できることがやるべきこととは限らない。やるべきと判っていてもすぐにやりたいと思えるわけでもない。だがそこには制約はない。やってできたものが生き残るだけのこと。周囲に迷惑をかけようが、恩恵を受けようが、それらはすべてお互いさま。自然界では「適応し継続すること」が常に正しい。

しかし、ここにお金が介在するとはどういうことだろう。元来お金には何の価値も無い、価値と価値を交換する引換券だった・・・と言うのは間違いで、価値の交換に時間や場所や人間の変換をもたらした。例えば冬のリンゴと夏のミカンは収穫時期が違うので交換できないはずなのに、お金が介在することでそれが可能になる。嫌われてどうしても譲ってもらえないものでも、代理人にお金を預ければ簡単に買えてしまう。つまり、お金には、自分にはできるはずの無いことを可能にしてしまうすごい力がある。それを積み重ねることにより、経済が生まれ、人間社会が出来上がった。すでに人間は自然の中に生きていない。お金の力を利用して、自分一人ではできないことを人類全体でやり遂げて、他の生物とはまるで違う形で生き延びてきた。しかし、その「つけ」もまた、お金の力で先送りしているにすぎない。

 

【信用が信用できない】

僕はお金を否定しないどころか、すばらしい発明だと思っている。人間はお金無くして生き残ることはできなかっただろう。お金には自分の力でできないことを実現する力があるが、それは一番信用のある人と同じことを、誰もができてしまう力と言い換えてもいい。信用とは、約束を守ってくれる保証のようなもの。これを自分でゼロから築き上げるのはどんなに大変なことか。ところがそれが、一度約束を守れば手に入りあらゆる場面で使うことができるのだから、こんな素晴らしいものはない。そして、このお金が、分け隔てなくすべての人に行き渡り、常に循環するならば、人類という種はすばらしい能力を発揮することになるだろう。そしてそれは途中までまで実現したのだが、道半ばにして破たんが始まった。・

お金は、分け隔てなく世界中を循環することでその力を最大限に発揮するはずだった。ところが活発にお金が使われるようになるにつれ、お金不足が始まった。お金の信用を担保していた「金(きん)」が足りなくなってしまったのだ。そこで世界は金本位制を捨て、市場で価値を決める変動相場制に移行した結果、お金の大増産が始まった。その結果お金は世界にあふれかえり、価値が下がってインフレになり、やがて自然に調整されバランスが取れるはずだった。しかし、現実はそうならず、人々はお金を貯めこみはじめた。自然の摂理に反して、豊かな国でデフレが続いている。貧富の差が拡大しているのは、お金を使わない人が増え、お金が循環していない証だと僕は思う。

お金の価値は「信用」だということを忘れてはならない。貧富の差とは「信用の差」を意味している。だから「それはおかしい」と思う人が今確実に増えていて、格差の解消が求められている。さもないとどうなるか。それは「信用」という価値が崩壊する。そんな不公平な「信用」など、信用できなくなりつつある。今社会の抱える問題の底には、そんな破たんがあるように思えてならない。

 

【自立率とは何か】

年賀状の挨拶文を書いているうちに、いろいろな気づきがあり、面白い議論が始まった。それは「お金の問題」だ。人間は、自らお金を生み出し、それを活用して反映し、今それを持て余して苦しんでる。しかしこの問題は、お金を客観視するあまりお金と人間の根本的な関係から目をそらしている節がある。それは、お金に託した大切なもの【信用】を持つ人と持てない人が、分かれつつあることへの憤りだ。不平等に対する憤りは【平等】という価値観に基づいている。不公平に対しては個別に立ち向かわなければならないが、不平等に対しては放置すると諦めや無関心を生んでしまう。「個別の不公平」と「全体の不平等」は、相互に密接に関わってはいるが、一緒ごたにせず、個別に対処すべき問題だ。

自立率とは、いきなり完璧=100%を目指すのでなく、少しずつ確実に自立していくこと。みんながバリバリ稼いで大金持ちになるのでも、みんなが生活を保障されて安心できるのでもなく、できるだけ自分で稼ぎ、できるだけ保証できるようにすることだ。社会の改革が一向に進まないのは、できもしないことをやるからだ。例えば、財源もないのに行われる福祉、全員に行き渡る見通しの無い社会保障などは、入居できる人とできない人、サービスを受けられる人と受けられない人という、100or0の取組だ。だから現実は「等しく不公平という平等」にしかなり得ない。50%の福祉、30%の医療など、もっと多様なサービスを100%の人に届けることを目指すのが、「自立率」という考え方だ。

ちょっと粗削りだが、新しいページを少し覗くことができたかな。続きはまたのお楽しみ。