5.まつむら塾

未来の描き方

【田舎の未来】

都会の未来は色々描かれるけど、田舎の未来はなかなか見たことが無い、世界中を見渡しても、大部分が田舎なんだから、田舎の未来って描く価値があると思う。ただ、ちょっと気になるのは「田舎」というこの言葉。実は調べてみると、もともと「都市」の対義語として使われはじめだらしい。文字が示す通り「田」(農地)の「舎」(建物)、即ち農耕を営む為の建物や農家を意味する語としては万葉のころからあった言葉が、鎌倉時代ころから「人里離れた、鄙びた場所」を意味するようになった。フランス語のカンパーニュはバカンスの行先を意味するし、英語のカントリーサイドは、タウン再度の反対だ。

「この流れに沿ってみよう」が僕の意見だ。僕ら人間の暮らし方、住まいのあり方があくまで話の中心だ。せっかく田舎があり余っているのだから、今住んでいる人のためでなく、僕らが田舎に住むことについて、考えることが大切だ。日本の民有地面積を人口で割ると、一人当たり1200m2以上になる。民有地面積を地目別にみると、宅地10.2%、田畑31.5%、山林48.8%、その他9.6%となっていて、宅地の面積は大都市でも35.9%にすぎない。つまりそれ以外の土地が儲からない土地として有り余ってくるのだから、僕たちはもっと様々な場所を様々に使う未来を描く必要がある。田舎は都会のバックヤードではなく、むしろ都会が田舎のバックヤードかもしれない。そういう発想の転換が必要だ。

 

【家族の未来】

「家族を作らない種族」というのをあまり聞いたことがない。家族とは、人間が生き残るために作った仕組みのことを指すのではないだろうか。だから、勉強しないと本当のところは判らないが、地域的にも歴史的にも様々な形があり、その仕組み自体が社会の仕組みの基礎となっているのだと思う。家族n仕組みが担うのは、その継続性だ。子供を生み、育て、教育し、次の世代にそれを引き継いでいくことが、家族という仕組みの役割だ。その家族が集合して、助け合い競い合うのが社会の仕組みだと思う、簡単に説明できないが、それがうまく連動していれば社会は安定し、継続する。検証していないので、あくまで僕の仮設だ。

この仮説が正しいとしたら、世代を超えて継続しないと家族とは言えない。「家族の崩壊」というけれど、そもそも「崩壊を招くような家族」になった時点で、それは崩壊していたといえるのではないだろうか。つまり、僕の意見は「核家族は家族じゃない」ということ。「核家族」こそが家族の崩壊だと僕は思う。その理由は「継続しない」ということ。仮に「核家族=夫婦と子どもの4人家族」だとして、幾世代も続く「核家族」というものを、僕はまだ見たことがない。世帯主一人が働いて家族を扶養できたのは貧しい時代の話であり、豊かになればなるほど高齢者と別居し、子育てを外注するのが世界の流れだ。その先にあるのは「お一人様デフォルト社会」だと僕には思える。僕は今、この流れに逆らうのでなく、受け入れた先に新しい家族ができるのではないかと感じている。笑恵館は、そんな試みとして、年会費500円で家族を募集している。

 

【おひとり様の未来】

先回、家族の崩壊がおひとり様標準の社会を生みつつある・・・と述べたが、今日はこの問題にどう向き合うかを考えたい。こういう場合の僕の手順は、まず「この問題は今後どうなっていくのか」についていくつかの未来を考える。そしてそのどちらに行くのかを選んでそこに行くための方策と、違う方向に行かないための方策を考える。そして最後に、必要なのに誰もやらなそうなことをやる。おひとり様についていえば、「おひとり様が定着する未来」と、「おひとり様を経て新しい家族ができる未来」の2つが考えられる。そこで僕は、後者の「新しい家族」の道を選び、おひとり様が定着しないようにすることと、新しい家族が生まれる取り組みの中から面白そうなものを選んでいく。これが僕のやり方だ。

この話に対し、皆さん様々な意見を持つだろう。だが、結論から言うと、すべての意見や批判は大歓迎。みんながおひとり様を選んでも、違う選択肢を見つけてもOK。すべての人から否定されても、僕はこのやり方をやってみる。未来を描くこと、道を選ぶこと、実行することはつながってはいるけど別のこと。自分が間違いだと思えば直すべきだが、他人の意見で変える必要は全くない。おっと、本題に戻そう。こんな僕が「おひとり様」についてどう思っているか。みんなが自立して、自己責任で生きていけるようになるのなら、おひとり様社会は実現するだろう。だが、干渉されたくない、依存されたくない、ないない尽くしのわがままだとしたら、話にならない。社会の基本構造にする価値がないものは、相手にするだけ時間の無駄、と僕は思う。

 

【まだやっていない未来】

未来の話ばかりしていてふと思い出したことがある。それは言葉と未来の関係だ。文法の時間に習った「動詞の活用」ことをちょっと思い出してほしい。未然・連用・終止・連体・仮定・命令・・・そう、これのこと。連用と連体は、次に用言が来るか体言が来るかの用法なので除外すると、未然は「まだ」、仮定は「もしも」、命令は「やれ!」となり、いずれも「まだやっていない」こと。残った終止は終わっているのかといえば、「やる」つまり「これからやります」という意味で終わっていない。要は、すべての動詞はまだやっていないことについて「これからどうするか」を言っている。アインシュタインが「電車に乗っている人は外から見れば走っているが、乗っている人は止まっている」と説いたが、動詞も全く同じで、外から見ると喫煙者でも、本人はこれから禁煙しようとしているのかも知れない。

未来とは、このままで居続けるか、何かを変えるかのいずれかだ。それについて、まだ・・・と悩んだり、もしも・・・と迷ったり、やろう!・・・と奮起したり、やる・・・と決めたりすることが「動詞の仕事」というわけだ。今現在全力で走っている人にとっては、やり続けることが大変だし、今なにもしていない人にとっては、何かを変えるのは大変だろう。でも、その人がいつかはやらなければならないことは、何かを始めるか、やめるかのどちらかしかない。禁煙がそうだったように、やめることも始めることの内。まだやっていない未来を、何から順にやるかを選ぶのが、今やるべきことに違いない。