3.用心棒・破綻処理

正常性バイアス

正常性バイアス(せいじょうせいバイアス、英: Normalcy bias)は認知バイアスの一種。社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語で、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。 自然災害や火事、事故・事件・テロリズム等の犯罪などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価したりしてしまい、「逃げ遅れ」の原因となる。「正常化の偏見」、「恒常性バイアス」とも言う。(ウィキペディアより引用)

今、防災に関する議論が高まる中、なぜ人々は危険が迫ってもすぐに逃げないのか・・・という問題がこんな風に説明されている。防衛本能には、実際の危険から身を守ることと心理的恐怖から身を守ることの2つがある。僕らにとって「世界」とは、客観的な現実の世界を意味するのではなく、自分から見た自分中心の世界のこと。だから時として、死なないように注意することよりも、死ぬ瞬間まで死なないと思い続けることの方が大切になる。僕が会社を倒産させたときも、倒産被害を少なくする対応よりも、倒産について考えようともしない経営者との戦いに時間を費やした。結局僕らにとっての正常とは、平安な世界のことよりも平安な自分の心理状態の方が優先する。僕たちは体でなく心で生きている動物なんだとつくづく思う。だけど僕はそう思わない。ぼくの意見を説明したい。

被災地で避難生活を続ける人たちの中には、逃げられなかった人だけでなく逃げなかった人が多く含まれる。彼らの話を聞くと、様々な偏見が重なって動けなかったことがよくわかる。だが、彼らは今、「次は絶対に逃げる」と口を揃えるのだが、それはまさに「被災の経験、ひどい目にあった経験」のせいだという。偏見とは、そもそも思い込みのことで、未経験のことを頭が勝手に描いている。ここで言う正常とは「今日まで無事だった自分の状態」のことであり、むしろ定義も確信もないただの偶然のことだ。だから、たとえ100年に一度の災害でも、たった一度の経験がそれまでの数十年の平和を覆す。少なくともしばらくの間は。

正常化の他にも、多数派同調バイアスというものがあり、周囲の大勢が動かなければ大丈夫と思う偏見らしい。まとめて言えば「事無かれバイアス」とでも名付けたい「何もしないことに対する言い訳」だ。しかし話はそう単純ではない。正常化や多数派とは、何かをすることに走ることもある。みんなが行くから学校に行くとか、みんなが目指すからいい会社だとか、これらの判断も、根拠のない偏見の一種に思える。みんなに釣られて動いてしまう、みんなで渡れば怖くない、動き出したら止まらないなど、何かをしてしまう事なかれもある。この偏見が現実に否定されたときの動揺を「パニック」という。現実を受け入れられずパニックを起こし、やがて現実を受け入れるころにはそれが新たな正常となってしまう。せっかくの気づきや学びの瞬間がパニックで吹き飛んで帳消しになってしまう。

僕は自分の経営する会社が倒産するとき、周囲の人たちがそんな状況に陥っているのを目の当たりにした。僕が常に客観的で、パニックとは無縁だったかといえばそんなことはない。だが、今振り返っても、当時の状況をきちんと説明できるということは、そして倒産経験が僕を成長させたと自覚しているのは、パニックを回避し、幻の正常から抜け出して世界と自分の関係を客観視できるようになった証だと感じている。今になってみれば、それができたのには2つの要因があったと考えられる。一つは、この悪夢のような状況を抱え込まず公表したことで、いなかったはずの理解者や協力者が現れ助けてくれたこと。そしてもう一つは僕自身が最高責任者でどこにも逃げ場がなかったこと。この2点について、もう少し丁寧に説明したい。

自分の窮状を開示できずに抱え込むことも、正常性バイアスの一種だと思う。そんなことを言ったら、世間が何というだろう、社員が動揺したら会社はどうなるだろうなどの不安は、実はバイアス=偏見にすぎない。僕は実際に「会社がつぶれそうです」とすべての人に白状した。これは普通できないことだと今でも言われるが、僕の特性は常に少し未来を考えることのようで、「そんなことを言ったらどうなるか」よりも、「それを言わずにいたら将来どうなるか」を考えてしまった。僕にとっての正常性は、「これまで安泰に暮らせたこと」ではなく、「これから安泰に暮らせそうなこと」だとその時はっきり自覚した。だから、発表したことで会社に人が押し寄せ大変なことになったが、僕は本当に楽になった。それは、初めは怒鳴り込んできた人ほど本当は倒産経験者であったり、似たような境遇の同情者で、ぼくはまさに彼らから「倒産ノウハウ」を教わった。本当に怒って怒鳴り込んでくる人は、半端でない敵か味方かのどちらかだ。これは社員にもお客様にもすべてに言えること。事なかれでない人との出会いこそが僕を救ってくれた。

そしてもう一つの要因は、僕自身の逃げ場がなかったこと。社長とはいえ、創業者の父の庇護のもと、何度も解任されそうになったが、ここで逃げたらその後の人生が恥ずかしくて生きていけなくなり兼ねない。だから僕は、むしろ父を解任してでも社長職を全うしようと思った。今でも、僕は最高責任者で本当によかったと感じている。もしもあの時、僕が専務だったら、社長を押しのけて倒産処理をするなどできなかっただろう。社長だからできること、社長にしかできないことがこんなに大切なことなんて、僕はこの時初めて知った。多くの人は「自分は社長じゃないから」と聞き流すだろう。でもそれは違う、僕らはある意味「全員社長」だ。まず、普通男性は家庭を持ち子供を作り、一家の主となるが、これは相当立派な社長だ。そうでなくても自分が何かを進めなければならない、先頭を歩かなければならない、最後から見届けなければならない、そんな立場になる時、僕はすべてを「社長」と考える。だから、女だって同じこと。つまり、誰もが何かの社長になりうるはずだ。責任者として逃げられない、現実と対峙しなければならない場面は災害がなくたっていくらでもあるはずだ。それをやり過ごさないようにした人だけが、現実世界を生きていくのではないか。

「過去のこと、続くこと、大勢と同じこと」とは、裏を返せば「未来を見ず、変化せず、自分で考えない」こと。変化があればパニックに陥り、時が建てば平和が戻る・・・それじゃ、一生誰かの3歩後から歩き続けるのと変わらない。小さくていいから変化を、時々でもいいから自分で変化をおこし、みんなが社長になる社会に僕は行きたい。