相手の身になる

相手の身になって考えることは、客観的に考えることとは違う。

「相手の身になる」のは単に「自分を外から見る」ことではなく、「相手の立場になって主観的に見る」ことだ。

人間同士の以心伝心は、現実には難しい。

相手が何を考えているのか、何を感じているかを知ることは現実には不可能で、できるのは相手の動きや発する声や匂いなどを5官で感じること。

つまり、相手の行動と同じ行動を自分がするときに、何を思い何を考えるかを思い出し、それを相手に当てはめて、相手の想いや考えを推察する。

これを「相手の身になる」とか「相手側に身を置く」いう。

だとすると、次の二つが想像できる。

一つは、結局相手の考えや思いを知ることはできないということ。

実際に知りたければ、相手に尋ね、その答を信じるしかない。

もしも相手がこちらの知らないことを知っていて、こちらが想像もできないことを考える人ならば、その人の身になることすら無理なので、その人の想いや考えを理解することは断念せざるを得ないだろう。

そしてもう一つ、相手は誰でもいいということ。

人間でなく、犬でも猫でも、ロボットでも、盆栽でも、石や海や星なども、その相手の身になって考えれば同じこと。

つまり、こちらで推測した思いや考えが正しいかどうかを確かめるすべがなければ、相手は人間である必要はない。

僕らには、太陽の悩みや月の喜びだってわかるはず。

この能力というか特性が、なビジネスを生みだす「の原点」だと僕は思う。

例えば「犬に関するビジネス」がこれほど多様に膨らんだのは、まさにこのせいだ。

人は犬を家族にも子供にも恋人にもしてしまう。

犬に癒しを求める人もいれば、犬を服従させてご機嫌な人もいる。

人間よりも自由になる分、犬の方が好都合だ。

今や子どもの数より犬猫ペットの数の方が多いのが実情だ。

また、ペット型のロボットや、バーチャルペットでも、ほぼ同等の成果をもたらす。

「そうだよね、そうなんだ」を繰り返すだけの人形に、一部の女性は人間以上に癒されるそうだが、現実の世界の実情よりも、自分で感じる主観的世界の方が、人間にとって如何に大切かということだ。

さらに進んで、モノに対する執着や愛情も、同類の感情の産物ではないかと思う。

ものに対し、かわいいとか愛しいと思うことは、その背後に見え隠れする人の面影だけでなく、そのモノ自体に恋をしたり憎しみを持っていると考えた方がわかりやすい。

こうしてすべての対象に対する「様々な感情」が、擬人化というか、人格化というか、あらゆる対象の身になって、犬の立場や石の心を思いやる「人間固有の能力」の賜物なのではないだろうか。

さて、「人間固有の能力」と僕は何を根拠に断言するのか。

それは、むしろこの能力をもって「人間」を定義するからだ。

僕たちは人間とそれ以外をどうやって区別し、見分けているのか。

こんな当たり前の問、答えづらくなってきたと感じる事件が多発している。

例えば、SNSによるいじめや匿名の嫌がらせなど、相手が誰だかわからないのに、つまり本当に相手が人間かどうかもわからないのに人は傷つき死んでいく。

相手の悪意を感じるのは、こちらが相手の身になった時に感じる悪意のこと。

初めにも述べたが、以心伝心はあり得ない。

相手の悪意が直接届くことはあり得ない。

だから人間は、実は自分の悪意によって苦しめられ、自分の恫喝に怯えているのではないだろうか。

そんな悪意としてのがあるとしたら、それは自分の身のうちにある悪意ではないだろうか。

抑止力とは、自分が相手だったら武器を持つ相手には用心するということだ。

つまり戦争は、相手が攻めてくるかもしれないと、自分が相手ならやりそうなことに対処して、起こしてしまう自作自演のようなもの。

安倍総理は、国会議員の多くは、国民の大多数は、心の中に殺人鬼を飼っているということか。

相手に家族を殺された時、本当に相手を撃ち殺すのか?