8月は能登半島、九州、そして新潟とずいぶん走り回った。行った先々の報告もしたいけど、何より時間を割いて車に乗っていたわけで、そのことについて話したい。とにかくどこに行っても、道路が立派だ。特に感じるのはトンネルと橋が立派なこと。トンネルは数キロ単位の長いものが数えきれないくらいあり、橋は空高く見上げるような場所が数えきれない。たぶん、素晴らしい技術の進歩があったのだと思うが、これを作った人たちは、その行く末をどこまで真面目に考えているのだろう。これらのトンネルや橋が老朽化した時、日本の経済は、日本の産業はどうなっていることを想定しているのだろう。

僕の弟は、新卒で道路会社のT社に入社し、今では日本を代表する道路工事コンサルらしい。一時期、外務省の要請を受け、中央アジア諸国の道路事情を見に飛び歩いていた。この地域はソ連時代に道路網が整備されたが、ソ連崩壊後そのメンテナンスに手が及ばず、国中の道路がひびだらけ。弟が帰国するたびに、各国の道路のひび割れ写真をいやというほど見せられた。現地の土壌と、廃墟となった舗装材プラントを見て歩き、極力現地調達による道路工事の安価なやり方を考案するのが弟の役目だ。日本しか知らない僕たちにとって、道路が立派できれいなことは当たり前に思えるが、世界を眺めるとむしろこれは異常なレベルだ。老朽化したトンネルのメンテナンスなどがこれほど社会問題化しているというのに、その建設は一向に収まらない。これは果たして未来へのプレゼントなのか、それとも悪夢なのか。

日本の国債発行残高が1千兆を超え、この借金はどうなるのか・・・と言われるが、赤字国債とは別名建設国債と呼ばれる債権のこと。つまり、極端に言えば赤字国債は返済すべき借金ではなく道路やトンネルになっている。これらは全て国民の財産なのだから、あわてて返す必要はないわけだ。むしろ「せっかく作るのなら是非わが町へ」ということで、政治家たちは競って地元に道路を作る。災害があれば復旧し、災害防止のダムまで作る。原発もよく似た構造で、災害がある度に立派になっていく。建設立国の名の通り、この国の産業は「作ること」で成り立っており、「使うこと」そして「使い続けること」に関しては、極めてお粗末だ。

土木工学を英語では「シビルエンジニアリング(文明工学)」というそうだが、日本では大学の土木工学科がほぼ絶滅し、ほとんどが環境工学系の名称に変わってしまった。ダムやトンネルを作ることを「文明」と呼ぶか「環境」と呼ぶかの違いに、日本の自然依存・・・他力依存体質みたいなものを感じる。「文明が滅びる」とは言うが、「環境が滅びる」とは言わない。文明を作ることには必ず「リスクや責任」が伴うのに、環境を作ることはあたかも「地球から感謝される」ぐらいに考えている節がある。しかしはっきりと言っておきたいことは、文明も環境も「人間に都合よく自然を壊す」点において変わらないということだ。

長いトンネルをくぐる時、高い橋を渡る時、僕はどうしても考えてしまう。なぜ悪路や上り下りに強い車を作らずに、燃費と乗り心地ばかりを優先し、車を守るガードレールまで用意して平らな道を作るのか。それは「今現在の心地よさ」だけを求めた結果としか思えない。山も谷も乗り越えて、まっすぐで平らな道を作ることが未来に何をもたらすのかなど、何も見えないし聞こえてこない。僕の耳には、未来の世界の悲鳴が聞こえる。お願いだから「身の丈のインフラ」で我慢してくれよ・・・と。