九州旅行の最終日、熊本から足を延ばし、天草を訪れた。ここはいわゆる「隠れキリシタン」の歴史の地。1566年にポルトガル人宣教師によって伝えられたキリスト教がここに根付き、1591年天草の河浦にコレジョ(宣教師大神学校)が開設されるころには長崎を合わせて25万人、この小さな島だけで2万5千人の信者がいたそうだ。しかし、秀吉が始めた弾圧は江戸時代になるとますます厳しくなり、1613年には禁教令を交付した幕府が、宣教師を追放しやがて鎖国が始まる。1637年ついに天草四郎率いる「天草・島原の乱」が勃発し、3万7千人の死により信者の抵抗は幕を閉じる。その後幕府の直轄地となった天草では、250年にわたり信者たちは「潜伏キリシタン」となって信仰を守り続け、明治の解禁後、改めて宣教師を迎え教会建設が始まった。

こうして建立された大江天主堂はのどかな農村の丘の上に、崎津教会は小さな漁村の海辺のほど近くにひっそりと建っていた。崎津協会を案内をしてくれた地元ボランティアの女性の「私も含め、この村の住人は全員この教会の保育園出身なんです」との説明に、一同皆ほのぼの気分に。教会に隣接する怪しい雑貨屋のおばさんからは、ニコニコしながら「ゆっくり見てってねえ」と声をかけられる。居合わせた観光客は総勢15名程度だったが、小さな漁村にしては大集団に思える。車も通れない路地にあるおばちゃんの甘味屋で作るイチジクのお菓子は一瞬で売り切れだ。これも世界遺産効果なのか、東京からはるばる地の果てまでやってきたのに、そこから世界につながっている・・・そんな驚きを感じた。だが待てよ、世界につながるということは、日本では端ということだ。国際という言葉は、まさに国の際(きわ)と言うじゃないか。

今回島原まで足を延ばしたのも、めったに来れない辺境だから。辺境には変わったものがあると思うからだ。しかし実際に訪れて地図を見ると、ポルトガルからやってきた宣教師の目から見れば、京都や江戸よりも天草や島原の方が絶対に入りやすい。当時の漁村や農村での、のどかなやり取りが目に浮かぶ。文化には国境など関係ない。今回の旅行で訪ねた福岡も、東京から見れば辺境だが、中国、朝鮮との関係で見れば明らかに重要な拠点であり、当時の中心が大宰府で東京の方が誰も行かない辺境だったに違いない。次に訪れた別府の街も、港に立てば愛媛の宇和島と対峙する海の玄関だ。水運が主要交通だった世界は今の世界観とまるで違う。大陸に面する日本海側こそが表日本で、何もない太平洋に面する側の方がよほど裏なのかもしれない。辺境、際、田舎という概念は、あくまで自分から見た世界のことで、世界には辺境などないのかも知れない。・

世界はぐるっとつながっているが、地域は有限かつ面的に広がる空間なので、必ず周囲の部分と中心部分が存在する。この地域を管理するには中心にいるのが好都合だが、その理由は「すべての辺境まで最短でたどり着ける」からだと思う。暮らしやすい土地に人々が集まりそこに集落ができ、やがて集落を結ぶ道が整備された。その後に鉄道が敷かれるが、それはうるさいので端に追いやられ、町はずれに駅ができる。(実際、初めの東海道線は海岸を走り、首都高速は川の上を走っている。)鉄道が交通の中心となるにつれ、駅前が栄え、旧市街は寂れていく。そして自動車社会が訪れると、駅前の繁華街や商店街が寂れて、郊外のショッピングセンターが栄える。こうして地域の中心は変遷を遂げてきた。交通手段の変化は中心と辺境の関係をも変えてきた。明治以後、日本政府が全国を統治する仕組みにしたおかげで、当時すでに世界一の都市だったと言われる「江戸」をもはるかに凌ぐ「東京」が絶対中心となった。しかし今、このことこそが変わろうとしているように僕は思う。

江戸時代には藩の数だけ国があり、すべてが自給経済を持っていた。少なくとも江戸幕府から助成金をもらうのではなく、逆に献上品や上納金を取られていたはずだ。ところがこれらを廃藩置県で取り潰し、1つの国にまとめたのは、当時の列強諸国と闘うためだった。世界のどこの国だって、もっと小さな国の緩やかな連合だったのに、近代の侵略競争を生き残るため、イギリスもフランスもロシアもアメリカも連合国家を作り、軍隊の規模を競うようになった。「平和」などときれいごとを言っているが、それは散々戦争ばかりしてきた反省と後悔の結果であり、その痛みを知らない人たちがまた平気で繰り返すだけのこと。むしろ、人類が進化して戦争を回避するとしたら、戦争の本当の原因を取り除くこと。それはもしかすると軍隊ではなく国家なのかもしれない。

国境を接する辺境の人たちは、争いもあるかもしれないが、その原因を解消し、共存・共生の道も探らざるを得ないだろう。小さな地域では、痛みも喜びも他人ごとでは済まされない。ところが地域が大きくなり、辺境と中央の距離が広がると、辺境の痛みや工夫を知らない中央の人間同士が相手を罵り、憎むようになる。辺境で対面する人同士の小競り合いと、距離の離れた中央同士のいがみ合いとはまるで意味が違う。少数個別の問題の中から多数代表的な問題が淘汰され、ごく一部の最も理不尽な争点へと集約されてしまう。その過程で、互いが理解し、許し合い、我慢できる話は全て抹殺されてしまう。大きな地域で大勢が集まるからこそ、こうした情報集約が起きてしまうのだと思う。

隠れキリシタンは250年の間、幕府中央政府の禁教令により、表向きは全員が仏教徒となり、赤ちゃんを抱いた観能像「マリア観音」を生み出し、仏教の経文を聖書の教えに変換する「教消しの壺」を発明し、信仰を守ってきた。250年といえば30年で割っても「8世代」に渡って、こんなことをやり続けたことは、まさに無形文化と言える。「自分が自分であることとは、中央に従わないこと」と言っては言い過ぎだろうか。僕は常に辺境でありたいと思う。