3.用心棒・破綻処理

舐められるということ

先日Sさんと話す中で「相手に[舐められている]じゃないか」という話をしているうちに、これは面白い言葉だと感じた。[舐められている]と感じているのであって、もちろん実際に[舐められている]わけではない。[舐められる]という言葉は[舐める]の受動態ではあるが、ここでは完全に違う意味で使われている。そのヒントは[舐める]という言葉だ。そもそもここで言う[舐める]とは、相手をぺろぺろ舐めることを言っているのではない。「日本語俗語辞書」によると[なめるとは相手やある物事を馬鹿にしたり、みくびったり、軽んじる、蔑むといった行為で、戦国時代には既にこうした意味で使われていた]とある。何の毒にもならない、食べても大丈夫・・・な程、軽んじることというわけだ。

ところで僕が[舐める]を面白いと思ったのは、この意味ではなく、[舐められる]という受け身の気持ちだ。実際に相手がSさんのことを舐めているかどうかには関係なく、Sさんは[舐められている]と感じている。つまり、ここでの受け身とは[何かをされているように感じること]を指している。何もされていないのに、何かをされているように感じるのは一体なぜなのか?・・・僕が興味を持ったのはこの点だ。[舐められている]と感じるためには、その感覚を知っていなければならない。[舐められた経験]のない人は、[舐められる]を知らないので[舐められた]とは感じないのでは・・・いやいや、そうではない。僕はむしろ、Sさんは本当に人に舐められたことがあるのだろうか・・・と、ふと感じた。

僕の意見はこうだ。[舐められる]とは、[もし相手が自分なら舐めるに違いない]と思うこと。つまり、舐めるのは、相手でなく自分だと思う。僕たちは「相手が何を考えているか」など絶対にわからない。自分の本心すらよくわからないのに、相手の本心など絶対無理だ。いろいろ思うのは全部自分。だから、[舐められる]という言葉は、そう思う自分のことだと思う。こうした例はいくらでも思いつく。[人目を気にする]とは、人からどう見られるかを気にすることだが、実際には他人は一人も見ていないかもしれない。間違いなく見ているのは、もしも他人だったら、もしも彼女だったら、もしも、、と様々な他人の「身になって考える自分」のはずだ。

言葉には「人称」という概念があり、どこの国の言葉にも「私(1人称)、あなた(2人称)、人々(3人称)」のような使い分けがある。自分が1人称なのは簡単だが、2人称と3人称が何のためにあるのか、皆さんはあまり考えないだろう。僕は[舐められる]という言葉からこのことを思い出したので、少し説明したい。自分以外の人は大別すると2人称と3人称に分けられる。2人称は[相手]のことで、面と向かう人や、電話などで話し中の人、つまり何らかのメディアを介してコミュニケーションを取っている人のこと。この相手に対しては、こちらの想いを伝えることもできれば、それが伝わったかどうかを確かめることもできる。たとえそれがうまくいかなくても、多くのことを伝え、感じ取ることは間違いなくできる。だが、双方向のコミュニケーションのない3人称の[人々]には、何が伝わったのかもわからなければ、何を思っているのかを知る由もない。

そもそも、[何かをされる・・・受動]とは、[何かをする・・・の能動]の裏返しであり、行為によるコミュニケーションだ。「何かをされること」よりも、自分だったらどうするか、なぜそんなことをしたのか、という「何かすること」の方に重点があるように思う。実際「なぜされたのか」など考えても仕方がない。もしも通りすがりの知らない人に殴られたとしよう。確かに殴った人は悪いかも知れないが、その人は運が悪かったとしか言いようがない。その時そこを通りさえしなければ、そんな目に合わなかったのだから。空から降ってきた医師に当たって死ぬのと、ほとんど変わりはない。また反対に「狙われて殴られた」としたら、そこには多少なりとも理由があったはず。何の責任もない「被害者」とは言い切れないかもしれない。加害者の中にも、そうしなければどんな目に合わされていたか・・・というようなまるで被害者のような人もいる。

僕は1999年に経営していた建設会社を倒産させてしまった。当時メインバンクだったT銀行が破たんしたのをきっかけに、目の回るような3カ月間だった。当初は、銀行破たんの巻き添えということで周囲の皆さんからご心配いただき、僕自身も[被害者]として行動を開始した。しかし、潰れてしまえば今度は自分が加害者になる。被害者と加害者とは、そういう関係だと気が付いた。今にして思えば、半分被害者の顔をしながら加害者としての様々な処理を行うことで、何の事件も無く、平和裏に倒産することができたのだと思う。多くの人から憎まれ叱られたが、励まし教えてくれたのもその人たちだった。・

究極的には、僕らはみな人間で、他の生き物に比べればほぼ同じ能力と体を持ち、生きるために同じようなものを必要とし、同じ社会で生活している。これらの人々が、互いの身になって「自分ならどうしたいか」、「自分ならどうされたいか」と考え、伝えあうのが世界の仕組みだ。だったら、何とかならないはずはない。そう思うのは、楽天的だろうか。