何かを説明しようとするとき、特にそれを一言で言おうとするときに、その言葉の意味が説明と違っていては話にならない。そこで[まさにこれ!]と思える言葉を探して使うのだが、それを相手がその意味で聞いてくれるかどうかが問題だ。たとえば[僕は自由だ]という気持ちを伝えたくても、この言葉にはいろいろな意味があり、それを絞り込むために説明を加える必要がある。「大人だから自由」とか、「考えるだけなら自由」などがそれだ。一緒に行動し、思いを共有していれば、余計な説明など不要で[自由だ]の一言で足りるかもしれないが、知らない人に伝えるためにはこの補足説明が必要になる。

さて、この説明とはなんだろう。[大人だから]とか、[考えるだけなら]はなぜ聞く人の理解を助けるのだろう。[大人だから]とは、[子どもではない]という意味、つまり[子どもでは得られない自由]を指している。[考えるだけ]も同様に、[考えるだけでなく実行するといけない自由]というような意味にとれる。いずれにも共通しているのは、[どのような自由]を説明するには[どのようでなければ不自由でない]のようにその自由の逆を示すことで、伝えたいことを浮かび上がらせている。

さてここからが本題。[逆]の関係には[善悪]、[成否]などがあるが、相対する二つの言葉は対等とは言えない。善や成には良い意味が、悪や否には明らかに悪い意味がある。数学でA≠Bなどと使うAやBには良し悪しなどないのに、現実の言葉にはなぜこんな意味が付きまとうのだろうか。(こういうことに疑問を感じるのが僕のくせだね) この話のきっかけは、一昨日笑恵館で食事をしていた時、左利きのYさんが「小さい頃、左利きを親からとがめられたのは理不尽だ」という言葉から、先日の[権利と権理]の話がつながった。「[権理]は[right]の訳語だ」という話を一緒に聞いていたK君が、[right]の方に反応し、「どうやら調べてみると、右には正しいという意味があり、左には間違いという意味があるらしい。」というのだ。

今度は僕が反応した。僕はノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎博士の著作「鏡の中の世界」のなかで、「人間が鏡を見て【左右が逆だ】と感じるのは、見えている増が左右反転しているからでなく、自分が左右対称にできているからだ」と書いてあったのを思い出した。人間は上下と前後を間違える人はいないが左右は対象にできているので同じだと考えようとする。だから、正面を向いて立っている鏡の中の自分は、向こうからこちらを見ているのだから前後反転しているのに、明らかに反転している前後関係は脳が補正してしまい、紛らわしい左右が反転していると言い聞かせてしまうらしい。だから、[右が正しくて左は間違い]とか、[左利きが叱られる]というような【左右に違いに意味がある】という話はとても新鮮で驚きを感じたのだろう。

実際、上下と前後には、明らかに意味がある。前や上には良い意味があり、後や下には悪い意味が感じられる。しかし前進や上昇ばかりし続けるわけにはいかず、後ろや下も必要だ。反対語に優劣や善悪があるのでなく、そもそも[優劣]や[善悪]自体が単なる[逆]を意味しているだけで、これらに意味をつけること自体が[自分の意見]なのではないだろうか。そんなわけで、僕は[その逆]を考えることを常に心がけている。[自分の意見]が何なのかを知る一つの方法として、そしてかなり重要な方法として。